原作を買ったまま積んでいたら、映画が公開されて、DVDにもなってしまった。とりあえず観た。
英語の原題「The Martian」を、どこをどうしたら「オデッセイ」になるのかはわからないが、全体的に面白かった。とにかくテンポ優先のストーリーテリングで、ゴリゴリのSF的説明はかなり簡素化されている。それでも十分雰囲気は楽しめた。
火星に一人ぼっちで取り残されたマークは、ともかく前向きで、堅実に物事を進めていく。計算と推測。そしてちょっとしたチャレンジ。普通なら、精神がおかしくなってしまう状況なのだが、彼には「やること」が山のようにあった。そうした精神のフォーカス先がある限りにおいて、精神は一定の安定を保つことができる。
しかし、嵐の夜には不安になることもある。そういうときは、そう、ジャガイモの数を数えるのだ。ああいうシーンは、実にリアリティがある。火星に一人ぼっちで取り残された経験は、幸いなことにまだ一度もないが、きっと不安になったら私も何かを数えると思う。人には、そういう性質がある。科学者なら特にそうだろう。
原作の出自が特異なせいもあるのだろうが、本作のストーリーはいささか奇妙な位置づけを持っている。あえて言えば、アンチ『アルマゲドン』だ。
映画『アルマゲドン』は、ごく簡単に言えば、地球を(正確には、地球上の生命体を)救うために、「勇者たち」が命を賭けて旅立つ、という構造だ。典型的なヒーローものと言っていいだろう。誰かの命が失われることで、代わりに大勢の人々が助かる。もちろん、そこには何かしらのイデオロギーも入ってくる。
『オデッセイ』はどうだろうか。
マークはたしかに命がけだ。しかし、彼が死んだところで、地球は(彼の家族を除けば)これまで通りの状態が続くことになる。別に、人類全体がピンチというわけではない。でも、人類全体が__アメリカと中国の協力ということでそれが表現されている__彼を救おうと賢明に頑張っている。
もう一度言うが、別にそんなことをする必要はないのだ。彼は一度死んだことになっていたし、実際死んでも「国家的損失」とはならない。パイロットには付きものの出来事である。
でも、本作ではマークは救われようとしている。徹底的に合理的な計算を重んじる科学者(火星側、地球側)たちが、経済性による功利主義では当然容認できない「損失」__無駄と言ってもいいだろう__を実行に移そうとしている。それは、命の価値というものが、そういう天秤では量れない、ということだ。もっと言えば、命が大切なのではなく、(自分や他者の)命を大切にしようという気持ちが大切なのだ。
『アルマゲドン』的なヒーローものは、「大義のために命を失う行為」に意味づけを行う。対する『オデッセイ』は、むしろ命を救うことに意味づけを行っている。合理性を超えた、生命の救出。
もう一度言うが、命そのものが大切なわけではない。そうではなく、命を大切にしようという価値観が共有されていることが、共同体を強力に背景づけるのだ。その意味で、本作は奇妙なぐらいの心地よさがあった。
監督 リドリー・スコット,原作 アンディ・ウィアー[20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 2016]
監督 マイケル・ベイ [ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント 2006]
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