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『フルトラッキング・プリンセサイザ』(池谷和浩)

第5回ことばと新人賞受賞作を表題作に、二篇の書き下ろしが加えられている。

  • 「フルトラッキング・プリンセサイザ」
  • 「チェンジインボイス」
  • 「メンブレン・プロンプタ」

「フルトラッキング・プリンセサイザ」を起点にして、「チェンジインボイス」は登場人物であるうつヰの学生時代を、「メンブレン・プロンプタ」は表題作の一年後が描かれている、という内容紹介を読んで、私は先入観を形成していた。つまり、「フルトラッキング・プリンセサイザ」のような作品がもう二つ読めるのだろうな、と。

大きな勘違いだった。

まず、「フルトラッキング・プリンセサイザ」だがこの作品は実験小説や前衛小説の印象を受けやすい。おそらくある程度小説を読み慣れている人ほど、最初読みにくく感じるだろう。

  • 地の文だけの違和感
  • 人物描写の違和感
  • 人称の違和感
  • シーンの区切りの違和感

一番特徴的なのは、地の文の構成だ。鍵括弧を使ったいわゆる会話文が一切使われていない。鍵括弧自体は裏紙うんぬんのところでいくつか登場しているので著者が鍵括弧の存在を知らないわけではないで、何かしらの意図が、それも作品上きわめて重要な意図が込められているのはすぐにわかる。

次に、人物描写がたいへん偏っている。読者に対して、その人は誰であるかを説明するようなご都合文がほとんどない。たとえば「向こうから歩いてくる部長は、奥さんと別れたばかりで機嫌が悪いのだろう。普段のロマンス・グレー然とした態度はすっかり崩れ、今は肩をいからせて歩いている」という文は、いかにも説明的である。言うなれば、読者に向けた説明が行われている。しかし、日常的に生活している人の心の声はそんなものではないだろう。その意味でここにはたしかにリアリティーがあるのだが、親切に説明してくれる文章に慣れていると、いささか状況が掴みづらいことになってしまう。

そして、シーンとシーンの区切りが曖昧で、一般的な小説ならば空改行を一つ入れるような場面の切り替えでも段落を変えただけでぎゅっんと進んでしまう。その速度感に違和感を覚える向きもあるに違いない。

しかし、である。

本書をしばらく読み続けていると、上記のような違和感はいつのまにか消えていく。文章のリズムに慣れ、視点に慣れ、世界の捉え方に慣れていく。そういう形のリアリティーが構成されていく。この体験が、本作において一番驚いた点だ。

既存の「現実」と異なる現実を、それまでのリアリティー表現を用いて表現するのでは、ラディカルな変容にはならない。作品世界を構成する文体そのものを新しく立ち上げ、読者がそこにピントを合わせる(波長でもいい)ことによって、現実感そのものの変容が生じるのだ。

そして、一つ飛ばした人称である。本書は「私は」や「僕が」のような文を使っていない。その意味で、一般的な一人称の作品ではない。たとえば一文目はこうなっている。

今日はバスタオルで体を拭こう。うつヰは出かける前に思いつき、それをメモするかどうか迷った。

一人称ではないが、三人称とも言い難い。しかも、作品内世界に置かれたカメラは、ずっと登場人物であるうつヰを追いかけている。これは一体なんなのだろうか。

ゲームの世界では、FPSというジャンルがある。ファーストパーソン・シューティングゲームの略で、プレイヤーはゲーム内のシューターの視線でゲームを進めていく。自分の体は見えずに、せいぜい手や構えている銃だけが目に入る。一方で、サードパーソン・シューティングゲームは後方斜め上からシューターを見下ろす視点でゲームが進んで行く。そこでは体全体が目に入っているが、しかしその世界を自由にカメラが動き回れるわけではない。「ジョジョの奇妙な冒険」のスタンドのように、シューターにずっと寄り添っている。

本書の視点はサードパーソン・シューティングゲームにおけるカメラに近い。

だとしたら、うつヰは自身を(あるいはその人生を)サードパーソン・シューティングゲームのような視点で捉えていて、その表現としてこのような視点の撮り方が採用されているのだろうか。おそらくその可能性はある。フォートナイトのようなゲームでも、プレイヤーは自分の姿を背後から見ている。そうしたゲーム世界の中でメタ認知が生まれ、それが現実世界の認識にフィードバックしているというのは、十分あり得る話だ。

今から10年後くらいの日記は、ごく当たり前のようにこうした視点で書かれているかもしれない。そうした日記を他の人が読み返すとき、実に奇妙な感覚を味わうだろう。自己と他者が曖昧に交じり合うのではなく、メタ認知的視点を経由して他人の人生を眺めるかのように。

というように、未来感のある話が二作続くのだと思っていた。特に「フルトラッキング・プリンセサイザ」は、能力を開花させていく若者の青春物語の側面があり、それがより大きく展開していき、VR界隈で名を馳せる人物になっていくという成功譚が語られるのだろうと、ほとんど無意識に想像していた。

しかし、私は忘れていたのだった。

私が著者の作品に始めて触れたのはとあるWebの投稿企画だった(今は掲載されていない)。その作品に漂う暗い感覚、得体のしれ無さ。そこに私は惹かれたのだった。もちろん、単に暗いだけではない。その暗さを一つのリアルとして、そこに別のリアルを立ち上げようとする意志に著者の声を聞いたのだった。

「メンブレン・プロンプタ」は、時系列で言えばたしかに「フルトラッキング・プリンセサイザ」の一年後ではある。しかし、同じようなトーンがもう一話展開されるわけではない。実験的・前提的な印象は薄れ、文学の土俵で物語は展開していく。そこでは、生きることそのものがもう一段深く問われることになる。

その意味で、私は「メンブレン・プロンプタ」こそが本編であるという印象を持っている。しかし、いきなりこの作品だけを読んだとしても、ここまでの衝撃は受けなかっただろう。時系列が手前にある二作のおかげで、本作品に深みと複雑さが生じていることは間違いない。


「フルトラッキング・プリンセサイザ」は、バーチャルなリアルと、物理的なリアルの二項対立を脱構築する作品だと言える。VR世界はそれを端的に示すものだろう。

一方で、「メンブレン・プロンプタ」もまた新しい生の(あるいは生活の)リアルを描いている。テクノロジーを使いながら、したたかに、しなやかに生きていく。それでも、私たちの身体はこの世界にある、というリアル。

本作によって提示される、多重に絡み合い、相互に影響を与え合うリアルは、マテリアルのように私たちの心に沈殿していく。その重さは形而上学的なものではなく、もっとずっとバーチャルなものである。

というわけで、雑誌「ことばと」で表題作を読んだ人ほど、この単行本を読んでいただきたい。きっとびっくりするから。

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