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『人生が整うマウンティング大全』(マウンティングポリス)

タイトルをみたとき、一瞬虚構新聞的なネタなのかと思ったのだが、ちゃんと発売されていた。

いったいぜんたい「マウンティング」を大全してどんな嬉しいことがあるのだろうか。さっぱりわからない。「マウントフルネス」なんてシュールなジョークのようにも思える。しかし、本当にそうなのだろうか。

(出版社さまより献本いただいた)

一般的にマウンティングとは嫌われる行為である。というよりも、嫌われる行為を指して「あれって、マウンティングだよね」とされる。つまり意味内容によって定義されるのではなく、発せされた言葉の作用によって規定されるのがマウンティングだろう。

本書の第1章「マウンティング図鑑」では、そうしたマウンティングの事例がさまざまに列挙される。基本的には、その発言を耳にする人間に対して、発言者が優位であることを「暗に」示すものが大半だ。

この第1章を読んで、読者諸君はどんな感情を抱くだろうか。「ああ、こういうやついるよな」と冷静な傍観者の気持ちになるだろうか。それとも「自分って、気がつかないうちにこういう発言をしている」と反省するだろうか。なんにせよ、私たちの日常に「マウンティング」が溢れていることに気がつくはずだ。

そもそも「マウンティング」という表現自体、動物が行う行動から拝借しているのであり、私たちも動物の一員なのであるから、マウンティングに類する行動を採ること自体は不自然ではないように思える。社会的なアニマル・スピッツが発動しているのだろう。

しかし、相手に優位性を示さなければならない、それも具体的に何かを競争しているのではない日常の場でそれを行わなくてはならないのならば、そこには「自分は優位性を保持していない」という感覚が存在しているのだろうと推測する。つまり、コンプレックスだ。

ほとんどのマウンティングは当人のコンプレックスから来ている。これは二つの場合で言える。一つは、発言者自身のコンプレックスが発言を誘発している場合。もう一つは、発言を聞く人間が抱えているコンプレックスによって、なんでもない発言があたかもマウンティングを取っているように思われる場合だ。

つまり、あの人の発言はマウンティングだよなと思っているそのとき、そこでは自身のコンプレックスが露呈している可能性がある。マウンティングを覗くとき、マウンティングもまたあなたを覗いているのだ。

だからこそ、マウンティングは常に「暗に」示される。それはまっすぐな自慢ではない。そのような「ハレ」の出来事ではない。そうではなく、内に沈むコンプレックスの裏返しとして表出する。そのコンプレックスは発言者のそれかもしれないし、受信者のそれかもしれない。あるいはその両方ということもありうる。なんにせよ、そこでは会話のコンテキストを通して、それぞれの人が心に抱えているものが露呈される。

だからだろう。教養がある人間は──通念としては──そうしたマウンティングは行わないことになっている。むしろ、そうしたマウンティング欲求を抑え込めるのが優れた人間像だとされている。

本書も同じ道を示すのだろうか。つまり、「こういう残念なマウンティングの事例がいっぱいあるので、皆さんもこれからは気をつけましょう」と啓蒙してくれるのだろうか。どうやらそうではない。

第2章「武器としてのマウンティング術」では、むしろそのマウンティングを「うまく使う」ことが提唱される。”一流のエリートが駆使する「ステルスマウンティング」5大頻出パターン”というのは、よくあるビジネス書のタイトルを皮肉ったものとしても捉えられるし、単純に自らの優位性を示すために「マウンティング」を利用する指南とも捉えられる。

また、続く”「マウントする」ではなく「マウントさせてあげる」が超一流の処世術 ~おすすめの「マウンティング枕詞」11選~”では、単純なゴマ擂りやお世辞が提案されているようにも思えるが、こちらの意見を押しつけるのではなく、相手が話たいと思っていることを素直に聞く態度だと捉えるならば、古典的な『人を動かす』や最近出たばかりの『話が通じない相手と話をする方法』との類似性も感じられる。対人的なコミュニケーションにおいて重要な姿勢ではあろう。

第3章「マウンティングはイノベーションの母」は、ようするに欲望の話であり、「他の人とは違う自分でありたい」という共通的な欲望──差異化・差別化の欲求──をマウンティングの視点で捉え直したものだと言える。差異によって優位性が獲得されるなら、それが広まると効果が薄れ、また新しい「アイテム」に注目が集まるという構図はまさにその通りだと言えるだろう。全体的に、ビジネスというのは欲求(ニーズ)に応え続ける営みであり、たしかに「マウンティング欲求」もそこには含まれるとは言えそうだ。興味があれば「誇示的消費」あたりを調べてみるのもよい。

面白いのは第4章「「マウントフルネス」を実現するには」である。著者が望むのは、それぞれの人が自分のマウンティング欲求を抑えて優れた人格者として振る舞うような啓蒙社会の登場ではない。そうではなく、私もマウンティングしますし、あなたもマウンティングしてください、というような相互マウンティング社会である。

一見すると、そんなにウザい社会はないようにも思えるが、逆に見ると、皆が皆、お互いのコンプレックスをさらけ出せるような社会とも言える。心理的安全性が確立されている、と言えなくもないだろう。

別の言い方をすれば、個々人が他人のケアをいっさい必要としない超人的な存在になるのではなく、互いにケアできる存在になる、という非常に「やさしい」世界が目指されている。

私はその考えに十全には同意しないが、一つの考えとして検討に値する内容ではあろう。なにせ、「私はマウンティングなんてしませんよ」という発言すらマウンティングになってしまうくらいに、私たちはマウンティングに閉じ込められている。そうしたものがまったく存在しない(あるいは存在すべきでない)と無視するのではなく、それがいったいどのようなものなのかを考えてみることは無益ではないだろう。

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