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『思考の整理学』から学べること

外山滋比古さんの『思考の整理学』が累計300万部を突破したと聞きました。

私も若い頃から何度も読み返している本で、長く読み継がれていることを嬉しく思います。

さて、本書の意義を現代的な視点で再確認するならば、アナログのノートを使っているといった話ではなく、知的な営みでは手間と時間をかけて取り組むことが重要である、という点を強調してくれているところにあるでしょう。

手法として顕著なのは、手帳→ノート→メタ・ノートというプロセスにおいて「アイデア」を扱うその手つきです。思いついたことをただパッと出すのではなく、しばらく「寝かせて」「発酵」させる、という著者のたとえがひかるその説明は、あまりにも瞬間的な反応に特化されているSNS時代においてはカウンターの(あるいはワクチンの)ような働きをもたらしてくれるはずです。

もちろん、ただ時間をかければいいというわけではありません。いったんその問題について忘れ、その間に別の知的活動を行うことによって、自分が抱えたひらめきを別の視点で見ることができるようになる。そのような自己の変化を通すことで、アイデアを多様な視点に晒せるようになることがポイントです。ある瞬間の「自分」というもののエコーチャンバーに嵌まりこまないようにするわけです。

この点は生成AIをどのように利用するのかという観点とも大きく関わってくるでしょう。使い方を誤れば、圧倒的な効率性で情報が「生成」できてしまう環境において、アイデアに膨らみと深さをもたらすための視座はきわめて有効です。

関連していえば、冒頭に出てくる「グライダー人間」のたとえがあります。言われたことをこなすのはうまいが、自力で飛び回ることができない、という状態をたとえたものですが、こんな文があります。

グライダー専業では安心していられないのは、コンピューターという飛び抜けて優秀なグライダー能力のもち主があらわれたからである。自分で飛べない人間はコンピューターに仕事を奪われる。

「グライダー」『思考の整理学』

もちろん、現代であればこのコンピューターに「生成AI」を代入して読むことができるでしょう(どうやら人間の仕事は奪われ続けているようです)。

そうなると、じゃあどうやって脱グライダーできるのか、という話になるのですが、ここに大きな問題があります。脱グライダーの方法を「教えてもらう」ことができるのか、という問題です。

ともかく、先生に言われるように勉強しなさい、となる。ひっぱるものがあるから、動き出す。自分が動くのではない。受け身だ。

「不幸な逆説」『思考の整理学』

もし「脱グライダー」の方法が、人を引っ張る力があるならば、それは結局その人をグライダー状態に留め置くのではないでしょうか。あるいは、引かれている間だけでは飛べる凧のようなものかもしれません。

本書が具体的なメソッドの指南書ではなく、エッセイとして書かれているのはこの点が関係しているのでしょう。自分で動き出す何かがないともともと始まらないものなのです。

とは言え、一つ有益な指針は与えられています。以下は、学生が論文を書くときに、テーマを見つけ出すための指針として語られているものです。いろいろな文献を読んでいくとき──

読んでいくと、感心するところ、違和感をいだくところ、わからない部分などが出てくる。これを書き抜く。くりかえし心打たれるところがあれば、それは重要である。わからない謎のような箇所が再三あらわれれば、それも注意を要する。

「発酵」『思考の整理学』

こうした自分の心のちいさな動きに注目し、それを書き留めておくこと。もちろん、そうしたメモだけで大きな何かが立ち上がるわけではありません。しかし、そこにはいかんともしがたくあなたという存在(経験の総体)と結びついた何かの根っこがあるはずなのです。

これは文献を読むことだけに限りません。言ってみれば、世界もまた一冊の書物であるので、私たちが日常的に経験するさまざまにおいて、そうした心の小さな動きがあるはずなのです(もしなければ、それはそれで平和です)。

それを書き留めておく。メモしておく。

「重要なこと」だからではありません。むしろ「小さいこと」だからです。書き留めておかないと、忙しい日常ですっかり見過ごされてしまう何かを拾うためにこそ、そうしたメモの意義があるのです。

その意味で、知的生産(活動)はメモからはじまる──そういってもいいと思います。それは、メモを直接的なマテリアルにするというよりも、ある種の自己観察を起動するためのものであり、どうしてもひっかかってしまう謎と向き合うためのものです。

もし知的生産のエンジン(あるいはガソリン)があるとすれば、おそらくはそういうものでしょう。

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