0

『センスの哲学』(千葉雅也)

困った。本書を評価しうる軸を私は持ち合わせていない。他の本と比較してどうこう言うこともできないし、「こういうタイプの本は、こう書かれているべき」という規範からの距離で測ることもできない。

そこで今回は、通常の書評という形態は諦めて、本書を読みながら考えたことをつれづれに書いてみることにする。

創造とは選択である

クリエイティブとは選択である。

私がある文をつむぐとしよう。そのとき私は、書くべき内容を選んでいる。その上で、その内容にあうように言葉遣いを選んでいる。一つの発話ごとに新しい言語体系を生み出しているわけではない。適切な言葉を「選んで」いる。

もっと大きな例をみてもいい。

猿がタイプライターを無限に叩けば、その中にはシェイクスピアの『ハムレット』と一言一句違わないテキストが含まれていることは論理的に正しい。しかし、無限のテキストの中から、その固まりを選び出すことが、その猿にはできない。誰かがそれを選ばなければ、形ある作品として世に問われることはないのである。

考えてみれば、シェイクスピアだって頭の中では無限の文字の組み合わせの可能性を持っていた。しかし、そのうちから適切と思われるものを選び、紙の上に乗せていったわけだ。あまたの可能性を検討したうち、一つだけを選んで、その他を捨てた。

クリエイティブとは選び続け、並べ続ける(そして終わりをも選択する)営みなのである。

とすれば、あとはどのように選び、どのように並べるのかという問題になってくる。

それは一方では技術論(形式論)になるだろうし、もう一方では直感的選択を鍛えるという話にもなるだろう。おおむね創作論はこの重ね合わせて成立するように思う。

センスと意味

本書はセンスの哲学なわけだが、これは意味を対象にした思考でもある。

センスは、当人において何かしらの良し悪しを見極める感覚で、言い換えれば「何を良いと思い、何を良くないと思うのか」の判断である。「良い」というのは、機能するということでもあり、意味があるということでもある。

たとえば、ある人が自分のセンスで洋服のコーディネートをしたとする。当然それは「自分が良いと思う組み合わせを選んだ」ということを示す。その結果、「あの人、センスあるよね」とか「センスが悪いよね」という判断が下される。

ここには二重の構造がある。

ある服を良いと思ったその判断が、他者から良くないと判断される。こういう構造だ。その他者は、その服が良くないという判断を下しているわけではない(間接的には下しているが)。その服を良いと思った判断を良くないと判断している。

こうした二重構造に気がつけば、メタな(つまり自覚的な)視点が立ち上がってくる。

意味の檻

私たちは、常に何かに対して「意味がある/ない」という判断を下している。その大半は無意識で行われるもので、判断していること自体を意識していない。結果、私の認識の中には常に「意味あるもの」が満ちて(選ばれて)、そうでないものは外側へと追いやられている。

問題があるとすれば、私が「意味がない」と直感的に感じたものが、あたかも外的な世界における真理であるかのように感じられることだ。そうでない可能性をイメージすることができない。私たちは、自分が生成する意味の檻に閉じ込められている。

これがクリティカルなのは、私たちの行為や思考がその意味の檻によって形成されている点だ。特異なことを何もしないなら、その時点では意味があるとは感じていないが、いずれかは意味があると感じれるかもしれないものは絶対に檻の中には入ってこない。意味と出会い直すことが叶わないのだ。

だからこそ、その意味のフィルターを弱める必要がある。完全に遮断する必要はなく、少し弱める程度で構わない。ほどほどのアポケー。本書ではディティールに注目することが提案されているが、それは「意味」(その時点の自分が判断している意味)から別の場所に目を移すことで、フィルターの効果を弱めることが期待されているのだろう。

実際本書を読んでから、映画鑑賞や絵画理解についての考え方がラディカルに変わった、という声をよく聞く。その意味で、本書はきわめて実践的な一冊になっている。

その上、本書自体が「全体的にこういうことを言いたいんでしょ」という”意味”として簡単に丸められる内容にはなっていない。圧縮に抗っている。その代わり、注目できるディティールはたくさん出てくる。そのディティールが思考を刺激し、行動を駆動する。

おそらく本書が簡単に要約できる内容で、しかも”理論”だけで構成されていたら、読む人は自分の意味の檻を変える手だてを得ることができなかっただろう。つまり、当人がすでに持っている”意味”以上の読み方はできなかったはずだ。しかし、本書では見事にそれが達成されている。

意味の倫理学

本書の多くは芸術鑑賞の観点として提示されるわけだが、「意味」の枠組みは人の生全般にわたって機能しているものであり、日常のさまざまな場面に効いてくることは簡単に予想できる。

たとえば、ある行為を目にしたときに「絶対に許せない」と感じたその判断。それも一つの意味である。あるいは、ある人を目にしたとき「この人は無価値だ」と感じたその判断。それもまた一つの意味である。

だとすれば、個々のディティールに注目したり、あるいは別のものと並べてみたりすることで、違った意味が立ち上がってくるかもしれない。

大切なのは「別の意味が必ず立ち上がる」という確信ではなく、「立ち上がってくるかもしれない」というイマジネーションである。

私たちが自分の「意味」とどう付き合うのかは、きわめて根源的な意味を(ここでも出てきた)持っているのだから、そうしたイマジネーションを育んでいくことは大切な行いであろう。

というわけで、ここまで書いてきたものを振り返ってみると、私はあまり芸術の本としては本書を受け取っていないような気がしてきた(もう少し言えば、「特別な芸術」ではない感じ)。ただ、本書は間違いなく「制作」において役立つ考え方が紹介されている。その意味で、きわめて「知的生産の技術」な一冊であることは最後に添えておこう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です