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『庭のかたちが生まれるとき』(山内朋樹)

著者が庭作りの現場に入り、その工程をつぶさに観察するという珍しいフィールドワークから書かれた本である。

できあがった庭を、美学的ないし歴史的に分析するという庭本ではなく、「庭」というものがいかにして生まれてくるのかを分析した制作本である、という点はまず特筆すべきだろう。よって、何かしらのものづくり(知的生産を含む)に興味がある人ならば、何かしら得るところがあるはずだ。

もちろん、そこで繰り広げられるのは、最初に精緻な設計図を引き、あとはその図面をそのまま顕現させるかのような制作ではない。むしろ本書が注目しているのは、いわゆる設計図が存在しない制作過程である。

設計図が存在しない?

そんな進め方で、複数人の作業をいかにしてまとめるのか。そもそも、どうやって進捗を”管理”するのか。

疑問に思われる向きもあるだろう。であれば、ぜひ本書をご覧いただきたい。何かを作ったことがないのならば大きな驚きが、何かを作ったことがあるならば素晴らしい発見があるだろう。

目次は以下の通り。

  • はじめに——ぼくが庭のフィールドワークに出る理由
  • 第1章 石の求めるところにしたがって〈庭園の詩学①〉
  • 第2章 集団制作の現場から〈庭師の知恵①〉
  • 第3章 徹底的にかたちを見よ〈庭園の詩学②〉
  • 第4章 物と者の共同性を縫い上げる〈庭師の知恵②〉
  • 第5章 庭をかたちづくるもの〈庭園の詩学③〉
  • おわりに——フィールドワークは終わらない

それぞれ奇数章(1、3,5)が「庭園の詩学」として、庭のかたち(石の配置など)が生まれる過程が追われ、偶数章(2、4)が「庭師の知恵」として、そこで働く職人たちの動きが確認される。簡単に言えば、前者が「物」についてのまなざしで、後者が「人」についてのまなざしだ。

むろんその二つは、もともと一つの「現場」の話である。両者は密接に関係している。だからこそ本書はサンドイッチ型に章が配置されているのだろう。私たちは物を見て、次に人を見、再び物に返ってくる。その往復運動は、まなざしの角度を変えるだけでなく、その深みもまた動かしてしまう。

「深み」に関して言えば、石の配置が丹念に追いかけられているのだが、途中で配置替えが行われる箇所がある。ある意味で、そこまでの分析を台無しにするような出来事だ。であれば、そうした配置替えによって過去の配置はまるっと無意味になってしまうのだろうか。もちろん、そんなことはないだろう。配置替えした時点では、見えなくなってしまっているが(つまり、歴史として刻まれてはいないが)、そのような配置がかつて為されていた、という感触の記憶は間違いなく残り、それが作り手の判断に影響を与えることは間違いなくある。

そのような「歴史にならない過程」は、本書のようにつぶさに現場を観察し、記録しない限り認識されないものだろう。本書の白眉は、そうした見えないものを表した点にある。私たちは常に完成品という「浅い」(過程の歴史が消去された)ものしか目にすることはできない。それは配置替えが行われる節目においても同じだ。しかし、その途中途中をスナップショットしていけば、その浅さの重なりによって、私たちはそれまで見えていなかった深さ(あるいは奥行き)をイメージできるようになる。

本書に登場する庭師・古川の思想もそうだ。

彼は実に遠大な想いを持って庭を制作している。しかし、そうした想いは庭そのものから直接感じ取られることはない。むしろそんな風に関知されてしまったら負けであるかのような、そんな姿勢すら窺える。おそらく著者がフィールドワークし、その想いを尋ねなければこうして認識されることすらなかっただろう。その意味で、庭は「浅く」見えることが望まれている。

ここで私たちは重大な視点の転倒に迫られる。「浅く」私たちの目に入ってくるものは、本当に「浅い」のだろうか、という疑いを消し切れなくなるのだ。ここで私は、千葉雅也の『勉強の哲学』を思い出す。その本では、いったん”変なところ”まで行ってしまった人間が切り返すことで周囲のノリに合わせられるようになる、という状態が示されるのだが、一度それができてしまったら、次から周囲のノリに合わせている人が浅い人なのか深い人なのかが断定不能になっていく。浅さと深さの境界が撹乱されてしまうわけだ。

本書を通過しても同じようなことが起こるだろう。制作の中にある「過程」に思いをはせざるを得なくなってくるのだ。

本書には制作論としても面白い話が多く、それはそれで一晩語り明かしたいくらいなのだが、とりあえずはここまでにしておこう。内容や装丁、使われている写真含めて、実に素晴らしい一冊だった。

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