実に不思議な本だ。明確なテーマに沿ってロジカルにツリーを構築している感じはない。むしろ、何かを必死につなぎとめて一つの形を成そうとしている、そんな雰囲気を感じる。
大きく二部立ての構成で、第一部「地下鉄にも雨は降る」では、著者が長年興味を持っている「地下鉄の漏水対策」のフィールドワークが語られる。書き間違えではない。地下鉄の漏水対策である。
そんなものどこでも一緒だろう、とあなたは思うかもしれないが、もちろんそんなことはない。
まず何より漏水と漏水対策は一つとして同じものがなく、同じ場所であっても、時により変化している。
そもそも地下鉄の駅ごとに構造が異なるし、地震が予測できないと同じように、どこにどんな漏水が発生するのかは一意に定まるものではない。雨の多さなんかでも対策は違ってくるだろう。一つひとつが個別的なのである。
まずこの点が面白い。つまりこれは「ケア」なのだ。ケアという行為は一般性よりも個別性・特殊性の近くに位置づけられる。漏水という出来事に対する手当ても同じだろう。注意深く観察すれば、そこにはさまざまな差異を見てとることができる。
興味を持った人には一つひとつが違って見えるが、興味のない人には同じものにしか見えない。あるいははなから存在していない。むしろ、一つひとつの違いが見えるということが興味を持つということなのかもしれない。
その通りだろう。他の人が書いた本を読むのが面白いのは、そのような違いが見える人の「まなざし」を拝借できる点である。興味を持たなければ見えなかった景色が、著者のまなざしを通して体験できる。これは共感とも反感ともまた違った心の動きだ。そうした動きによって、私たちは心の稼働域を拡げることができる。
そのようにして第一部では地下鉄の漏水対策がフィールドワークされていくのだが、著者は漏水だけを見ていない。それと同時に漏水から目を離せない自分自身にも目を向ける。なぜ、自分はこのようなものに──つまり、他の人が興味を持たないようなものに──興味を持ってしまうのか。ここにも個別性・特殊性の和音が響いている。
私は以前から「セルフ・スタディーズ」という考え方を提案していて、これは「自分自身という不思議な存在の研究」という含意なのだが、しかしそれは直接的には行えない。「自分が自分の研究をする」というのは危うい再帰性を持つ。だからそこに一手差し込むのが吉だ。つまり、何かを研究する自分を研究する、という具合である。
このことは、村上春樹の牡蠣フライ理論にも通じるだろう。彼はとあるエッセイの中で、「自分自身について書くのは不可能だが、牡蠣フライについて原稿用紙四枚以内で書くことは可能であろう」という旨のことを書いている。そのようにして牡蠣フライについて書けば、いやおうなしにその人そのものが表されてしまう。
「セルフ・スタディーズ」でも同じだ。私たちは、個人的な研究を行うことで、自分自身について知ることができる。純化された他人の欲望でもなく、内面化されきった規範性でもなく、「よくわからないけども、それに興味を持ってしまうもの」に向かって進むこと。そのベクトルを観察することによって把握できる「自己」がある。
本書でもそれは同様だ。著者は漏水対策の分析を進めるうちに、それが「手に負えない」代物であることを理解する。一度対策を確立したら後はマニュアル通りに進めればいい、一度処理したら後はもう考えなくていい、というわけにはいかない。手当てを続けていくしかない。それが「手に負えない」という言葉で表現されている。
著者は長く続く観察と分析を通じて「手に負えない」という言葉を手にした。これは”言語化”といった安直なプロセスとはぜんぜん違う。この言葉は「見つけられた」と言っていいだろう。はじめから頭にあった概念を「言語」というフォーマットに落とし込んだわけではなく、思考した結果として見出されたものだ(ある意味偶然的に、ある意味必然として)。
というところで第二部「手に負えないものたちと暮らしてみる」では異なる題材が扱われる。いかにしてその「手に負えない」ものと付き合うのか。
第二部第一章「さかのぼる」では、著者の子ども時代の住まい(和菓子屋兼住居)の話が、第二章「見る」では、〈当たり前〉なものを見ることの難しさが語られる。面白いのは第三章「作る」だ。詳細は本書に譲るして、二つだけ文章を引用しておく。
だから、作ることは、見ること以上に、対象を知るための機会を与えてくれるのだ。しかも、すべての要素が満遍なく詳細に考えて作られるわけではなく、どの側面に気づき、興味を持って肉付けするかというところには、必ずと言っていいほど作っている「私」が現れる。
具体的に作り出した一つのものを通じて、手に負えないものを見る。これは、ありとあらゆる手に負えないものを集めて列挙し、見続けて、それらと向き合う統一的な方法を捻り出そうとするのとは、おそらく違うものだろう。これまでは、そのようにあらゆるものと向き合おうとするばかりに、その向こうにある見えない全体に圧倒され、不安に襲われていた。だが今度は、むしろ手元に一つの具体的なものを作ろうと集中することで、対象を有限化したのだ。
私が考えるに、現代の高度消費社会との関係を編み直すには、「つくる」しかないように思える。つくることを通して、世界へのまなざしを変える。つくることを通じて、自分へのまなざしを変える。ここで詳しく論じることをしないが、本書はその方向性を示してくれた。
また、私がついつい興味を持ってしまう分野に引きつけるなら「リストをつくる」や「ノートをつくる」も、この”具体的に作り出したもの”に相当する。それらを作っても、快刀乱麻に問題が解決することはない。しかし、手当てにはなる。たぶんそれだけで十分なのだ(不完全ではあっても)。
この書評記事だって、この本の全体像はぜんぜん捉えられていない。しかし、これを書くことで部分的にこの本について考えることができた。他にも3パターンくらい感想の記事は書けるだろうが、そんなものをすべて追いかけようとしても無駄だ。そもそもが「手に負えない」ものなのである。
何か具体的なものをつくり、また時間が経ったら別の仕方でつくる。つくりなおす。
そのようなつくりなおし、語りなおし、編みなおし、の繰り返しによって、私という存在は、あるいは世界という存在は存続している。関係性の編み目はつねに再編に開かれている。
おそらく著者にとっての本書も、そのような「具体的に作り出した一つのもの」なのであろう。半分は語られたものとして、もう半分は語りなおされる(かもしれない)ものとしての本である。









