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アニメ『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』

ガンダムである。2015年10月から2016年3月まで第一期が放映された。幸い、第二期の放送も決定しているようで、ほっと胸をなで下ろしている。

なにせ「まだこれからでしょ」なところで幕切れだったのだ。ミカズキとマクギリスの対決に決着がなければ、僕らのカタルシスは訪れない。

さて、一体だれが予想しただろうか。ガンダムの新しいシリーズが任侠アニメになることを。しかし、これは必然でもあったのだろう。

本作は宇宙世紀シリーズではなく、さらに言うと「戦争もの」ですらない。

戦争はかつてあった。厄祭戦と呼ばれたすさまじい戦争で地球は疲弊し、文明は衰退を余儀なくされた。火星を植民地とし、さらに4つの勢力が均衡状態を保つことで、平和は維持されている。むろんそれは見せかけの平和だ。

ほとんど植民地のように扱われている火星では不満の火がくすぶり始めているし、貧困と疎外と差別が充満している。戦争からは300年も経ち、若い世代はその存在を知ることすらなくなりつつあるが、その爪痕は文化に刻まれ、300年以上も生き延びている。少なくとも第一期は、「戦争」の話ではない。その影響が確実に影を落としている「戦後」の話だ。

主人公が少年であり、兵士であることはこれまでのガンダムシリーズと同じである。が、彼らは大きな戦争に「巻き込まれたり」はしない。そもそもはじめから「無害な一般市民」ですらない。物語のスタート時点ではCGSという民間警備会社の社員であり、その後は自分たちで鉄華団という会社を組織する。もちろん、そこでは必要とあれば人を殺すことをためらわない素養が求められる。それを自らで選び取ったのが彼らである。

なぜ小さな子どもたちがそんな会社に所属しているのか。もちろん、貧困と差別が背景にある。この世界では、人身売買される孤児はヒューマンデブリと呼ばれている。スペースデブリは宇宙ゴミとも訳され、不用になった人工衛星の朽ちた破片を差す。デブリとは(不用の)ゴミであり、破片でもある。

破片とは全体から疎外された物質を差す。人間の社会的ネットワークを全体と捉えれば、そこから疎外された人がヒューマンデブリなのだ。彼らは、どこにも居場所がない。ただ売り買いされるだけのオブジェクトである。だからこそ、彼らの命には値段が付いてしまう。そこには尊厳は存在しえない。

宇宙世紀シリーズのガンダムでは、その主人公の大半が民間の子どもであり、また「いやおうなし」に戦争に巻き込まれていた。当初は「いやおうなし」であったはずの彼らが、徐々により積極的に敵を排除するようになってしまうその変化こそが、戦争という状況が持つ力の怖さであることをガンダムシリーズは明らかにしていた。個人の意志がどうあろうと、二つの大きな勢力の争いはただただ激化していき、人の意志もそこに飲み込まれていく。現実の戦争だってそうだろう。

「鉄血のオルフェンズ」では、現時点でまだ戦争は起きていない。巨大な勢力が、その生存を賭けて命の奪い合いを行っていない。が、主人公の少年たちは別の戦いを強いられている。「ただ、生きる」という戦いである。

本作のキャッチコピーは、

「いのちの糧は、戦場にある」

だ。これはまさに、彼らが「食うために」戦わなければいけないことを提示している。もちろんそれだけではなく、命の輝きというのはそこに宿る使命の大きさで変わる、ということも意味しているのだが、ごく単純に任務をこなさないと食べていけない事実の方をより重く捉えるべきだろう。

だからこそ、本作は任侠アニメにならざるをえなかった。

現実社会に目を移せば、極道といったものは、社会に適応できない人々の寄り合い所帯として機能していることが見えてくる。社会で破片として生きていくのは難しいのだ。かといって、既存の社会は受け入れてくれない。だからこそ、寄り合いが生まれ、それが組として力を持つことになる。力がなければ、破片をつなぎ止めることができないからだ。それは存在理由から求められる機能でもある。

彼らは社会から拒絶され、社会と距離を置く。そして、その一部は必然的に法の外側に位置することになる。だからこそ、秩序を立てる何かが必要なのだ。それを人はしきたりとか儀式と呼んだりする。

秩序の内側で生活する人間には、そうした儀式はあまりにもばかばかしく思える。滑稽だと笑いたくなる。が、そうした寄り合い所帯が存続していくためにはどうしても必要なことなのだ。法の外側にいるからこそ、「思い」といったあやふやなもので人をつなぎ止めるしかない。

親が子どもをきちんと育てなければ、さまざまな法律が顔を出すだろう。が、親分が子分をどう扱うかは、どんな法律も定めていない。だからこそけじめといったものが必要となってくる。その中でしか通用しないにせよ、規範は規範として働き、人はそれを信頼することで安心を得られる。

本作では、たびたび「俺たちは家族なんだ」といったセリフが登場する。これはかなり象徴的で、アニメ『終わりのセラフ』でも頻繁に登場している。

そこで言及される「家族」は、親と子といった血縁による家族ではもちろんない。それは絆を持った共同体の言い換えである。人が破片ではなく生きていくためには、そうした共同体に所属することがどうしても必要になってくる。

そして、現実の日本社会を見ると、これまでの共同体は徐々に力を無くしつつある。会社がその代表例だが、地域社会や家族も同様だろう。しかし、だからといって「人は個人で生きていけばいい」とは決してならない。そのような破片化は、どのような意味合いにおいても人を幸福にはしない。私たちの脳が社会的な欲求を持っているからだ。

だからこそ、旧態依然とした共同体に代わる何かを見つけ出さなければならない。それはこれから10年、20年後の社会的な課題となるだろう。本作は、それを少し先取りして提示している。

彼ら鉄華団の未来はどうなるだろうか。希望を両手に掴めるだろうか。それとも、どうしようもない袋小路に向かうだろうか。その姿は、あるべき共同体の姿を考えるヒントとなるはずだ。

第二期が楽しみである。

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