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『光る夏』(鳥羽和久)

帯に「まったく新しい紀行文学」とある。これまで紀行文学を読んだ経験がほとんどないので、何が「まったく新しい」と言えるのかの物差しを私は持っていない。

読みはじめる前は、文学的な技巧で書かれた旅行についての文章が出てくるのだろうと予想していた。しかし、違っていた。旅行という経験を題材にした文学が本書にはあった。つまりアクセントは”紀行”ではなく”文学”にあったのだ。

もちろん、旅のことが書かれていないわけではない。むしろ「旅」のことが書かれている。そして、私はこんな「旅」があるだなんて想像もしていなかった。

私は旅や旅行に関心が低い──ところでこの二つは何が違うのだろう──ので、40数年生きてきて、旅行らしい旅行をしたのは結婚したときに長崎にある妻の母方の実家に挨拶にいったときくらいだ。仕事での出張的な移動を除けば、それ以外の旅行経験は皆無である。なんというか、家でゆっくり本を読んでいたい人生なのだ。

だって観光地に行って、観光名所を巡り、その土地の名産を食べて帰ってくるだけでしょ、と。それくらいなら本を読んでいた方がはるかに楽しい。

著者が描く旅はぜんぜん違っている。人がいるのだ。場所とともにある人との出会いが旅の魅力を構成している。著者は旅先で人と出会い、会話し、思いを交わす。歴史や出来事を辿るジャーナリスティックな記述もあるが、大部分のまなざしは人に向けられている。場所や物を見ていても、その先に人を見ないではいられない。もちろん、そのまなざしは著者自身にも向けられ、そこで思索が展開されていく。

私は探している本を店員さんに尋ねることをしないくらいに人に話しかけるのを避ける生活を送っているので、そんな人間からすると著者が描く旅は、想像力のはるか外にあったと言える。まずその出会いが、私からすれば「旅」的だ。そういう旅をする人がいるんだ、と。

でも、それだけはない。私は小説を読むことを旅のように捉えているのだが、本書の読中・読量感はまったく同じであった。旅をしている話を読んでいること自体に、一種の旅がある。不思議な感覚だ。

その意味で、本作は「旅」をモチーフにした短編集として読むこともできるだろう。つまり、そこに生じているメタファーの力に感応されるように読む。そういうことが可能な作品である。「紀行文学」と名前がついているからといって、私のような旅嫌いの人間が読まないのは実にもったいない。むしろ、そういう人こそ読むと旅感をぐらぐらと揺さぶられるはずである。

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