私は、我が家の晩ご飯担当大臣である。だから毎日晩ご飯を作っている。いや、毎日のように晩ご飯を作っている。
これがなかなかたいへんなのだ。食材を準備し、献立を考え、栄養バランスとか飽きとかを考慮して、実際に調理を行い、後片づけをする。そのすべてが、別段晩ご飯担当大臣の仕事というわけではないのだけども、なんとなく流れでそうなる。そういうことを毎日行う。基本的に同じようなことを、毎日違うようにする。これは機械的に毎日同じことを繰り返すよりは頭を使うし、クリエイティブな仕事よりは単調である。なかなかのバランスだ。
しかし、全体的にしんどいのは献立を考えることである。これが結構めんどい。調理に関しては、料理によってはしんどいこともあるが、手軽にできたり、むしろ楽しかったりすることもある。片づけも、食後の胃の重さ的にしんどいこともあるが、一度着手さえすれば後は頭をぼけーっとしていてもこなせる。段取りとスピードが重要な調理に比べて、むしろ瞑想的要素があると言える。
さて、本書は副題が示す通り「毎日のごはん作りがすーっと楽になる」本である。ポイントは間違いなく「毎日のごはん作り」だ。家族のご飯を担当するものは、基本的に毎日それを行うことになる。週に一回の休みに、えいやを腕をふるう日曜コックのようにはいかない。そんな頑張りは間違いなく毎日続かない。
それに仕事があったり、子どもの世話があったりと、家事以外のこともやらなければいけない。それは私が物書き+主夫をしているからではなく、現代の主婦の多くに言えることだろう。家事を隙ななくこなすことに全力を尽くすことは到底現実的ではない。本書は、とてもリアルな本だと感じるのだが、その源泉とも言えるのが、そのような現実性へのまなざしである。
たしかに、理想としてはぴしっとした料理を毎日作るのが望ましいだろう。ようするに「ちゃんと」料理をするわけだ。それこそ、こうしたレシピ本ではそのような体で話が進められる。しかし、まさしくそうした理想こそが私たちを苦しめてしまう。「楽」に近づくことを拒否してしまう。「ちゃんと」しなければ、という気持ちがまるで拘束具のように私たちの心を締めつけてくる。
しかし、考えてみれば、現代の人間はそんなに暇ではない。何もかもをきちんと完璧にちゃんとこなせるというのは理想中の理想である。King of 理想。実際の現実はそんな風にはいかない。
だからといって。そう、だからといって本書はあらゆる手抜きを肯定していたりはしない。別の言い方をすれば、「料理をする楽しさ」を拒否していたりはしない。あたかもそれをこなさなければならない作業であるかのように徹底的な時短と効率化を目指したりはしない。だって、ご飯を作ることには、間違いなく楽しさもあるのだから。
私はそこに共感を覚えた。下ごしらえはするけども、作り置きはしない、という指針はまさにそれを示すものだ。下ごしらえは、あくまで補助ブースターのようなものであって、そこから料理を始めることができる。一方、作り置きは温めるなどして提供したらそれで終わりだ。料理はしていない。ここに、ほのかにつまらなさがつきまとってくる。
リアルな感覚とは、こういうものだと思う。料理は大事だからとなんの妥協もゆるさずに「ちゃんと」を至上命題とする態度でもなく、かといってそれを単なる効率化の対象としてのみ扱って楽しさが含まれている可能性をすべて捨て去るのでもない。自分のやることと、やらざるをえないことと、やりたいことのそのバランスを探っていく姿勢。
同じような姿勢は、『ときほぐす手帳: いいことばかりが続くわけじゃない日々をゆるやかにつむぐ私のノートの使い方』にも感じた。理想通りにはいかない中でも、なんとか自分にとっての「いい感じ」を探ろうとする姿勢。これこそがリアルなノウハウであり、凡人たる私たちにとって役立つノウハウでもあろう。
本書もさまざまなレシピはそれだけでも役立つが、「ちゃんとしなくてもよいのだ」という一つの具体的な事例として、つまり心の拘束具を解きほぐしてくれる一冊として、とても「役立つ」料理本である。