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アニメ『Re:ゼロから始める異世界生活』

もちろん、ご存じのようにレムである。なんといってもレムである。
※賛同者もいる(2016年4月アニメ、今期のヒロインはRe:ゼロのレム)。

というわけで、「Re:ゼロから始める異世界生活」(以下リゼロ)の話をしよう。だいたい13話目ぐらいまでを射程に入れている。

(ネタバレを含むので未視聴の場合は注意)


原作を読んでいないので、アニメ版のストーリーのテンポがよくわかっていない。かなりさくさく進めているような印象は受けた。

とりあえず、第一話から徽章奪還までの第三話を序章とするならば、そこではエミリアがヒロインだったと言ってもいいだろう。というか、実際にヒロインである。高橋李依が実にマッチしている。

でもまあ、これはまだ準備運動みたいなものだ。本当の意味で物語は始まってもいない。本作がスタートするのは、スバルが意図的に「Re:」を選択した第七話からだ。あの瞬間から、彼は物語に流されるものではなく、自ら物語を語るものとなった。『涼宮ハルヒの忘却』で、キョンがそうしたように。

以降、スバルはスバルとして自分の物語を紡ぎはじめる。その最初のコミット先がレムである。レムとラムは双子ではあるし、当初は両者は均等に扱われてはいるが、双子にも性格的違いが生まれるように、徐々にスバルの視線にも違いが生じ始める。手がさしのべられることを求めているのは、誰でもない(今でもツノを持つ)レムなのだ。

エミリアは、何度ループしてもエミリアだった。その純粋性、裏表のなさがループの世界設定で巧妙に語られている。何度繰り返しても、エミリアはやっぱりエミリアなのだ。

しかしレムは違う。レムは揺れ動いている。その不安定さが、ループの世界設定で奇妙なほど残酷に描かれている。絵の具を塗り重ねる油絵のように、レムというキャラクターの陰影がループの中で強調されていく。エミリアというまっすぐな存在が前もって示されていたからこそ、その陰影はより強く見る人の心に残ることになる(※)。
※ただし、これ自体も一つの伏線というか次の話への準備ではあった。

このあたり、ループの使い方が実に巧妙だ。ループ物を、物語の鋳型として扱うのではなく、むしろ表現の一形態として捉え、それを洗練させている。そんな印象を受けた。


レムを担当する水瀬いのりも良い仕事をしている。

異色の学園ゾンビもの『がっこうぐらし!』では、丈槍由紀という天然系キャラを演じた水瀬いのりだが、ご存じのように背景の世界が異形であればあるほど、天然かつピュアな性格と物言いは逆に恐怖感を際立たせる。誰もいない教室で、一人楽しく「みんな」と語り合う由紀というキャラは、ゾンビものでありながら、ホラーとは違った怖さを生み出していた。

それに比べてレムは、はっきりと裏表がある。凶暴さを内側に抱えているのだが、それは恐怖心の裏返しでもあるのだ。表面的に何でもないように振る舞ってはいるのだが、彼女は常に欠落した気持ちを抱えている。あの日、ラムのツノが落ちてからずっと彼女はその欠落を抱えて生きてきた。

そう。これは喪失についてのお話なのだ。

ツノを失ったラムは、実は何も失っていない。彼女は単に新しい状況を受け入れた。しかし、ツノを失ったラムをそばで眺めるレムは、何かを喪失している。ツノという存在の不在が、彼女にそれを突きつけてくるのだ。それはどれほどの恐怖だろうか。なにせ、そこに存在しないものが源なのだ。それ以上消えようもない。

もちろんこれは罪についての物語でもある。

しかし本作はその深みにははまらない。スバルという軽い(いっそチャラい)キャラが、暗い物語に共感を示しながらも、さっそうと笑い飛ばす。笑顔で手をさしのべる。

それに呼応するように、普段は隠れている右目も覗かせながら彼女がニッコリ笑うとき、僕たちは大いに撃沈することになる。やっぱりレムなのだ。


実際のところ、本作の素晴らしい点は、スバルの姿勢にある。彼は生きようとしている。

当事者の死によってもたらされるループは、素直に考えれば、その当事者の生を希薄化させていくだろう。なにせ死んだらやり直しできるのだ。しかし、スバルはそれを理解した上で、生の一回性にこだわっている。だからこそ、彼の「Re:」の選択には重みが生まれる。誰かのために生きることと、誰かのために死ぬことは同じコインの裏表でしかない。これは「活かすことと、殺すこと」が対比的に語られていた『暗殺教室』にも重なってくる。

僕たちはいわゆるゲーム世代、特にファミコン世代である。その世代的感覚には、「いつでも、やり直せる」が静かにたたずんでいる。そのゲーム的感覚をやりきれない絶望感と共に小説的世界へと展開した作品が『All You Need Is Kill』であった。当然のように、その中では一回ごとの生は極めて希薄化され、「たった一つのエンディング」が人生の頂点とされる。

スバルはその姿勢を断固として否定する。彼はメタ的にループ物という存在を知りながらも、安易にその「攻略法」には流れていかない。一回一回のセクションにこだわり、全力で生きようとする。世界を愛そうとする。

スバルのその姿勢は、ゲーム的感覚と人生をごちゃまぜにしてしまうような、そんな僕たちに対する懐疑でもある。そして、その懐疑はやや特殊な構造を持っている。「人生は一度きりしかない」とゲーム的感覚を否定するのではなく、むしろゲーム的感覚をメタな視点で眺めた上で、「それでも俺は、この世界を生きる」と宣言しているのだ。

仮に輪廻転生があったところで、今生きている人生そのものは一回限りしかない。世界にどのような可能性があるにしても、目の前にある人生はただ一つなのだ。そのような、一度相対化を経た上で、目の前にある存在に絶対性を認める姿勢は、僕たちのゲーム的感覚を強く揺さぶる。

このように、ゲームというメタファーを否定せず、むしろその内側に潜り込んだ上で超克するようなやり方は、川原礫の人気シリーズ両作にも見て取れる。それくらい、ゲームというメタファーは、僕たちに調和しているのだ。簡単に棄却できるものではないし、また棄却して良いものでもない。

なぜなら、「いつでも、やり直せる」は一つの希望でもあるからだ。特に、「勝ち組」といった言葉に代表されるような、一度失敗してしまうとその後の人生をすべて損なってしまう、というような価値観がはびこる世界では唯一の拠り所となる希望でもある。

しかし、「いつでも、やり直せる」にすべてを仮託してしまうことは、結局人生を捨てることとイコールだ。だからこそ、折り合いが必要になる。本作のような超克は、そのための効果的なスタイルだと言えるだろう。

ただし、スバルはまだ、自分の「物語」しか紡げてはいない。それは本当の意味では、物語ではない。今後は、そのあたりにフォーカスが移動していくのだろう。


まあ、そんなややこしいことを考えなくても楽しめるアニメだ。でも自然と、ややこしいことを考えてしまう作品ではあるかもしれない。

それはともかく、十二話で突然、田村ゆかり、井口裕香、堀江由衣、植田佳奈を出してくるのはズルいと思う。

どうしたって引き続き見てしまうではないか。

Re:ゼロから始める異世界生活 1 [Blu-ray]
監督 渡邊政治 原作 長月達平[KADOKAWA メディアファクトリー 2016]

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