Lifehacking Newsletter 2016 #22より
「 煽る」というのは、今でこそネガティブな受け取られ方をされがちですが、前向きな方向に煽る、あるいは鼓舞するということもあるわけで、そういう場合は問題ありません。
ですから、問題にされるような「煽る」記事というのは、読者をある方向に向けて扇動する、読者の一部か全てかにとって不可能なことを押し付ける、あるいは自分はできているのに他の人にはできないのかと自分の優位性を確認しようとするような文章のことを指しているのでしょう。
ここで問題にされている「煽り」系の記事には、大きく二種類あると思う。自覚的か、そうでないか、だ。
自覚的な記事の場合、煽ることでどんな結果を得ようとしてるかで、また分かれてくる。自らの利益か、そうでないか、だ。
ただし、これを見分けるのは難しい。少なくとも、記事だけで「本心」を見通すのは無理だし、それができると思うのは傲慢というものだろう。でも、そうした「煽り」の記事に反論が発生すると、その反応から見えてくることはある。自らにやってきた反論に、自己弁護か反論者への攻撃しか返さないなら、その発言者は自らの利益のことしか考えていない。
もし、自分以外の存在に思いを馳せて発言しているならば、反論を真摯に受け止めた上で、さらなる反論を行うだろう。なにせ、自分の発言が及ぶ対象のことを考えて発言しているからだ。そういう人は「自分が間違ったことを言っている可能性」を噛みしめる。やってきた反論がもし正しいのなら、自分の意見を修正することもやぶさかではないだろう。なぜなら、大切なのは自分の面子ではなく、その言葉が届く人なのだから。それをしない、ということは推して知るべしである。
さて、自覚的でない場合はどうだろうか。つまり、本人は煽っている自覚がないのに、結果的に読み手が「煽られている」気がしてしまう場合だ。
その場合は、だいたい書き方・言葉の選び方がうまくいっていないことが多い。堀さんが指摘されているように、「べき」という言葉を使わないようにするだけで、記事の印象はぐっと変わる。この文章だって、「べき」という言葉はつかうべきではない、と書いた瞬間に、一気に「普遍的なルーリング」となり、それはちょっとどうだろう、という反感を呼ぶだろう。
※もちろん、もし書き手がありとあらゆる可能性を想定した上で、そう書いているならば、それは自覚された「煽り」であり、この場合にはあたらない。
そういう「勘違い」を読んでしまう書き方は結構あって、実はそれはある種の「文章術」として流通していることがある。たとえば「断定しましょう」といったノウハウだ。強い言葉を使えば、強い反応が返ってくる。そうでなくても、強い印象を残すことはたしかだ。だから、本当に断定できる文章なのかを考えないままに断定してしまい、結果的に煽ったことになってしまう。それが予想外の炎上を呼び込むこともあるだろう。望んでいないのだとしたら、できれば避けたいことだ。
私は以前、以下のような記事を書いた。
個人的にはこういうスタンスで記事を書きたいと願っている。むしろ、そういうルールで書いている。
でも、インターネットでは強い言葉が広範囲への流通で力を持っていることもたしかなのだ。自分が本当に伝えたいことを、強い言葉を使って書きたい誘惑はやはりある。
しかし、「見られる」と「読まれる」は違うのだ。これを忘れてはいけない。心の奥に届くためには、その文章が「読まれ」なければならない。「見られた」だけでは届かないのだ。それを踏まえた上で、「べき」という言葉以外で注意することと言えば、
- 主語を必要以上に大きくしない
- 価値観を善悪に置き換えない
- 断定するときは、じっくり考えてから
あたりがあるだろうか。これだけのことを意識するだけでも、文章の味付けは淡口になる。そして、勝負はそこからなのだ。