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『君は君の人生の主役になれ』 (鳥羽和久)

webちくまでの連載がまとまっている。連載のタイトルは「十代を生き延びる 安心な僕らのレジスタンス」であった。本書の第5章も「勉強という名のレジスタンス」となっている。なぜ、レジスタンスなのか。

私たちは、与えられて生まれてくる。生まれてからもさまざまなものが与えられる。好むと好まざるにかかわらず、私たちは与えられる。命、衣食住、言葉、価値観、倫理観、……。そのようにして、私たちは「りっぱな」な人間となる。

そうしたものがまったく与えられない状況を、私たちは悲惨だと呼ぶだろう。それを防ぐための施策になら熱心に援助するはずだ。しかし、与えられすぎてしまう状況はどうだろうか。欠乏ではなく、過剰。そのことにどれくらい目配りできているだろうか。

本書では、若い世代に向けてさまざまな事柄との付き合い方が提示される。学校、世間、友達、恋愛、親、お金、学校、……。そこで姿をのぞかせるのは、ヒョロヒョロの道徳ではない。毒を見据えた道徳だ。自らが毒を持つことを理解しているがゆえに、対象を一刀両断することをためらう道徳。複雑性を、ぐっと飲み込み、腹に据えておく。そういうタイプの考え方が提示される。

なぜそうしたものが必要なのか。それは私たちが与えられたものから自由になる必要があるからだ。「必要」という言葉は強いかもしれない。そのような機会が人生に訪れるときがある、といってもいい。

私たちは「安定」した状況から逃れなければやっていられない瞬間がやってくる。所与や前提をひっくり返すことで、ようやく自らの存在を保てるタイミングがやってくる。

それはまさにレジスタンスであろう。少なくとも、「安定」の内側にいる人からすればそのように見えるはずだ。

よって本書は大人にも突き刺さるものがある。見たくないもの、いや、ずっと見て見ぬふりしていたものを突きつけられるような感覚があるはずだ。一体自分は何を損ない続けてきたのだろうか、と。そうしてもう一度腰を据えて考えることだろう。

大人になるとはどういうことなのだろうか、と。

本書のタイトルは、「君は君の人生の主役になれ」である。まず主語が省略されていない点が素晴らしい。また、「君の人生」という限定も良い。親の人生でもなければ、世間一般の人生でもない。ただ唯一の「君の人生」をターゲットにすればいいのだ。

そして「主役」。そう、これは役なのだ。主人公ではない。主人公はずっと降りられないが、役は交代しうるし、代打もある。ちょっと休んでもいいし、他の人に譲ってもいい。ときには主役の俳優が脇役をやり、脇役の俳優が主役をやることもあるだろう。そこには、さまざまな人の陰影ある可能性が感じられる。少なくとも、「主人公」になってモブを見下すようなくだらなさとはずいぶんと距離がある。

そうした距離も置き方も、一種のレジスタンスであろう。人生の主人公になれと追い立てくる資本主義マシーンからの。

さて、本書において一番大切なメッセージは「生きる実感を大切にする」である。

自分の生きる実感を大切にし、周りの、あるいは他者の生きる実感を大切にすること。

言うまでもなく、これは倫理観である。しかも、これほど地に足のついた倫理観はそうない。大人でも守るのが難しい、いや「大人」であるからこそ難しい、という声も聞こえてきそうだ。

そういう大人にこそ、本書を読んで欲しい。面白くないことへの抵抗を諦めてしまった大人にこそ。

(冒頭部分は以下のサイトで読める)

あなたは何のために勉強するのか|ちくまプリマー新書|鳥羽 和久|webちくま(1/2)

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