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テクノロジーと不快なもの

フェイスブックも「保守」と「リベラル」の切り替えボタンを(BLOGOS)

確かに、もう一方のグループの記事に対して人は不快になり得る。その投稿に同意できないだけでなく、それが間違っていると分かっている場合はなおさらだ。

テクノロジーは、人間を助けるために開発される。不便を便利にし、不快を快にする。

問題は、それが政治運営と致命的に相性が悪いことだ。共同体運営と言ってもいい。

テクノロジーに善悪はないと言う。その通りだ。しかし、不快を排除する、というのは一つの志向だ。ここに問題がある。

それはFacebookのアルゴリズムの良し悪しといった小さな問題ではない。「不快を拒絶する」というテクノロジーを覆い尽くす全体的な思想に潜む問題なのだ。

「不快なものは見たくない」は、「不快なものは存在しなくても構わない」に簡単に近接する。無論、その後に待っているのは「不快なものは存在してはいけない」だ。これが、どれほど恐ろしいのかは選民思想に導かれた政治がどのような厄災を人類に振りまいたかを考えればよい。

共同体は、多様な人々で構成される。そこでは「不快なものと同居する」姿勢が求められる。別に、不快なものを無理矢理評価せよ、というのではない。不快なものを不快と感じるのは自由だが、それがそこに存在することを許容せよ、ということだ。その眼差しは、当然自分にも他者から返ってくる。その暗黙の了解が、共同体を基盤づける。

もう一度言うが、根本的な問題は「不快」との付き合い方である。

自分の部屋を断捨離するのはかまわない。ただし、共同体は自分の部屋ではない。それを忘れてはいけない。

不快をことごとく拒絶する姿勢を持つ限りにおいて、テクノロジーはその後を追従してくる。やっかいなのはその「姿勢」は、目に入ってくる情報から影響を受ける点だ。だからこそ、フィルターバブルは根源的な問題へと接続している。

フィルターバブル──インターネットが隠していること (ハヤカワ文庫NF)
イーライ・パリサー [早川書房 2016]

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