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『「逆張り」の研究』(綿野恵太)

本書は「逆張り」の研究と銘打っているが、逆張り論を展開しようというのではない。本書を読んだからといって逆張り通にもなれないし、逆張りマスターにもなれないだろう。では、本書はどこに目を向けているのかと言えば、最近悪口として使われている「それって逆張りでしょ」というような発言の裏にはどんな心境があるのだろうか、という点に目を向けている。

たとえば以下は著者自身が受けたことのある悪口や罵倒のリストからの抜粋である。

  • 冷笑主義
  • 目の前の問題からメタレベルに逃げている
  • どっちもどっち論
  • 相対主義
  • 傍観者
  • 言葉遊び
  • 読者を勇気付けない
  • 目立ちたいだけ

私もSNSで(というかTwitterで)見かけたことのある文言だし、たまにこういうことを自分も発言したくなるくらいには”日常的”な言葉なのだが、こうした言葉たちを「逆張り」と結びつけながら、それが悪口や罵倒として発される状況を著者は健闘していく。

簡単な話で、何かしらの発言をしたときに「それって逆張りでしょ」と非難気味に言われるということは、その1:もともとの発言のスタンスが気にくわない、その2:それを逆張りと呼べばマイナスになると当人は思っている、ということがわかる。ではなぜ、そうした心境になっているのか。それを読み解いていこうというのだ。

その意味で、本書はある時期以降のTwitterに渦巻くある心性が解体されていると言える。その心性とは端的に言えばポピュリズムなわけだが、そこまで単純に表現してしまうこと自体がポピュリズム的なのでもう少し詳しく検討してみる。

逆張りの難しさ

たとえば逆張りという言葉の発端となった投資の世界では、「大勢の人とは違った価値基準を持て」というのが一つの指針になっている。「人の行く裏に道あり花の山」という格言は有名だろう。付和雷同ではよくないというのだ。なぜなら、皆がとある株式を買っていることが確認できてからその株式を買うと、ほぼ確実に高値で掴んでいることになるし、そこから大きく儲けるのは難しい。だから、まだ価値が発見されていない株式を見つけ、それを安いうちに仕込んでおくのだ、という話になる。

こうした指針が格言になっているということは、逆に言えば普通の人間はそうした行動が取れないことを意味する。集団行動・協調的行動を主とする生物なのだからそれは当然だろう。そうした生物(遺伝子)の理に逆らわないとなかなか株式では儲けられないのだ。

さて、まだ多くの人に価値が見出されていない株式を見つけてそれに投資をする、というスタンスは著者が指摘するように批評と同じ仕事だと言えるだろう。そこには構造的な同一性がある。すでに人気の作品を「すげーです」というのは批評の仕事ではない。まだ誰も面白いと気がついていないものに、「これが面白いんですよ」と伝えること、あるいは皆知っている作品のまだ気がつかれていない角度での面白さを掘り出すこと。それが批評家の仕事だろう。未発見のものにベットするという点で、投資家と批評家は似ている。

ここから話は二つに分かれ、後にそれが合流する。

投資家っぽいムーブ

まず、一見投資・批評的なものに見えて、それとは異なる活動があることだ。たとえば「あなただけに未発見の株式を教えます。必ず儲かりますよ」という手紙が来たとして、それを意気揚々を買うとしよう。しかしその手紙は他にも1万通も送られていて、後から買う人は高値で買うことになり、手紙の送り主は悠々と売り抜けているという状態があるとして、手紙を受け取って株式を買った人は「未発見のものにベットした」と言えるだろうか。さすがに言えないだろう。

ではその違いとは何だろうか。情報の真偽を見極める目があるかないか? おそらく違うだろう。そうではなく後者は何も掛けていなかったことが違いである。「掛ける」とは単にお金を使うことを意味しない。どういう結果がやってくるかはわからないものにチップを置くことである。その意味で、「必ず儲かりますよ」という誘いに乗っている時点で、それはもう投資家ではない。単なる追従者である。

同様に、すでに人気の作戦に一定の角度で文句をつけたら炎上するし、それで話題になるだろうと目算している時点でそれは批評家ではない。可能性に掛けてないのだ。

同じことは「商品開発」についても言えるだろう。すでにあるコンセプトから少しだけ軸をずらしたものを作って満足することも、まったくイノベーティブではない。差異化の卓越なだけだ。

上記のような活動もろもろが嫌われるのはある意味で納得できる。たとえば政府の言うことなら何でも反対しておけというスタンスはジャーナリズムとは言い難いし、それを「単なる逆張り」だと断じたくなる気持ちもわかる。しかし、そうした罵倒が拡張していくと、まっとうな批判においても同様の発言がなされ、それによって議論が無効化されてしまう恐れがある。

あたかもアブのような

さて、分かれた話のもう一つに進もう。投資家・批評家のスタンスの話だった。

投資家・批評家は、まだ価値を認められていないものに価値を見出す。つまり、付和雷同ではない。言い換えれば、それは既存の共有されている価値観とは違ったコンセプトを打ち出すということだ。これは哲学者の仕事とも似ているだろう。ときに哲学者は”挑発的”なことを言うわけだが、それは常識とは違うことを彼らが考えているからだ。

そのような仕事は、そこにある「空気」を引っかき回す。山本七平が『「空気」の研究』で述べた「水を差す」という行為に相当する。そんな人はどういう扱いを受けるか。もちろん嫌われるわけだ。

少なくとも一つの集団にあって、その集団が同じ価値観を尊重しているのが良いことだと考えられている場合には非常に嫌われる。それがもっとも強く現れるのがポピュリズムなわけだが、最近のSNSではいわゆる「リベラル」な人たちであっても、そこにある空気を引っかき回されると激怒するようなこともある。そうした感情(部族意識)が強く露呈しやすいのがSNSという空間なのかもしれない。

そのようにして、異端の発言者はまとわりつくアブのように嫌われてしまう。

何が大切にされているのか

さて、二つの話をまとめるとこうなる。

見せかけの逆張リストは「逆張りでしょ」と罵倒されるが、まっとうな逆張リストもやっぱり「逆張りでしょ」と嫌われてしまう。

なかなか悲惨な結果だ。でもって、そこに共通するのは「私たちを脅かさないでください」というメッセージなのだろう。集団の、仲間の、私の、気持ちを損なわないで欲しい。それをなすものは何であれ敵である。その敵を排するためなら、あるいは私たちの気持ちが維持されるなら、真実なんて手段でしかない。

とりたてておかしい話ではない。個々人の生が大切で、しかも集団に従うことが善であるという価値観においては、真実や共通善の追求などの価値は二段も三段も低くなる。自身の生を集団の中にしか位置づけられないなら、集団を(もっと言えば、その空気を)守ることは至上命題となる。

その意味で、本書は震災以後のSNSの「空気」の研究でもあるだろう。著者自身の実体験も踏まえて語られるその分析はあまり心躍るものではないが(少なくとも勇気付けられはなしない)、それでも少し速度を落として目の前の出来事について考えるテンポは与えてくれるように思える。

即効性のあるノウハウが求められる現代においてこういう本を出すこと自体が、一つの「逆張り」だとは言えるだろう。

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