「BOOK READING CLUB」でパーソナリティーとして活躍中の著者によるエッセイ集。2020年に幻冬舎から出版された単行本の文庫化で、補章として三編のエッセイが追加されている。
目次は以下の通り。
- 1章 ぼくは強くなれなかった
- 2章 わからないことだらけの
- 3章 弱き者たちのパレード
- 4章 弱くある贅沢
- 補章 川下への眼
- あとがき
- 文庫版あとがき
まず、タイトルがよい。
もしこれが「平熱のまま、この世界に熱狂する」だったら、へぇ〜、そう、くらいの速度で見切ってしまっただろう。だってそんなん無理じゃん、という反論が湧いてくる。
しかし、「熱狂したい」のだ。そこにはまだ得られていないものへの渇望がある。矛盾を恐れない、勇気ある一歩の予兆が感じられる。
その一歩は、言ってみれば反転への道行きである。ある価値観をひっくり返す。それも革命的転覆ではなく、日常的反転である。
たとえば著者は「打算的な優しさと「〇を作る理論」」で、優しい行動と思われたものがその実ぜんぜん別の動機から生まれていたことや、打算において為される優しい行動を語りながら、私たちに「優しさ」という概念のつかみ所のなさを示す。その上で、こう結ぶ。
優しい人になりたいな、と思うけれども、本当にそうなれているかはわからない。厳格さも崇高さも、僕は持ち合わせていない。僕は、打算的で理屈っぽく、かつ適当さに憧れを持つ人間なのである。そんな僕でも、優しい人になりたいとたまには思う。
私が思うに、「優しい人になりたいとたまには思う」人こそが本当に優しい人ではないだろうか。たとえば、四六時中優しい人になりたいと思っている人は、明らかに強迫観念の影響下にある。たぶん目の前の人のことを思っている余地はそこにはない。もちろん、一瞬たりとも思わない人は、他人に完全に無関心か、自分はすでに優しい人であると思っている人だろう。やっぱりそれも本当に優しい人とは思えない。
こんな風にして、「優しい人」という概念が転倒される。つまり、優しい人とは優しい人のことではなく、優しくなりたいと(たまには)思う人のことなのだ。
同じことは「強さ」についても言える。
著者は自分の「弱さ」を認められたことで、はじめてその「弱さ」とうまく付き合うことができるようになったと書く。言うまでもなく、自分の弱さを認められることが「強さ」なのだ。
ここでのポイントは、「弱さ」という表現にある。自分の特性を認めたとしても、「そうなんだからしょーがねーだろー」と開き直るパターンは珍しくない。当然そこでは、少しでも良い状態に向かおうという気持ちは生まれてこない。
一方で「弱さ」というならば、そこには欠落があり、それをなんとかしたいという気持ちが生まれえる。それはたしかに「強さ」に向かう気持ちなのだが、当初描いていた「強さ」とは違った形がイメージされている。
つまり、自らの弱さを引き受けた上で、それでも前に進もうという気持ちを持てることが「強さ」なのだ。
私に言わせれば、自分の強さにふんぞり返っている人間も、弱さを盾に「しょーがねーだろう」とさじを投げきっているのもコインの裏表に過ぎない。そうではなく、強くあろうとすることが、強さなのだ。そして、弱さの自覚がないところに、強くあろうとする意志が生まれることはない。
そんな感じで、本書では日常に起こる様々な出来事と、そこに生じる著者の心の機微が駆動力となり、いくつもの観念・概念をめぐる旅が繰り広げられる。その意味で、体験としては気楽なエッセイ風でありながらも、文学的・哲学的な響きがたしかにある一冊だ。
ちなみに、本書を読んだことで自分も毎日お酒を飲む生活はまずいと思いを改め、しばらく禁酒しようと思って三日目でビールを開けていた。まあ、ほどほどのペースで減らしていくとしよう。