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『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』が終わらせたもの

(激しいネタバレを含むので未視聴の方は注意)

中学三年生の頃だった。「新世紀エヴァンゲリオン」のテレビ放送を田舎特有のノイズ交じりの画面越しに食い入るように見ていた。

多感な時期である。格好をつけて「たいして影響なんて受けていないと」うそぶくことすらできない。ほとんどまちがいなく、クリティカルに、マージナルに僕はこの作品に影響を受けている。僕の中の「中二病成分」をDNA鑑定したら、間違いなくこの作品のそれが見出されるだろう。

ドラゴンボールや幽☆遊☆白書のようなバトルものでもないし、SLAM DUNKやシュート!のようなスポーツものでもない。かといって、シティーハンターのような少し大人めいてアーバンな作品でもなければ、ロボットで戦争する作品でもない。それまでのどんな作品とも違っていた本作は、学園物であり、異能物であり、ロボットものであり、可愛い女の子とが登場するアニメでもあった。つまり、エヴァンゲリオンだった。聖書まわりの言葉に敏感に反応するようになったのも、間違いなくこの作品の影響が強いだろう。

それまでの単純にわくわくする気持ちを提供してくれるアニメから、少し難しいこと、暗示的なものを提供してくれるアニメへのシフト。そのような作品との触れ合いは、文学的な興味と共に、批評的なものへの興味も脈動させたはずである。あの時期に本作を出会わなければ、ここまで理屈っぽい人間にはなっていなかったかもしれない──というのはさすがに他人のせいにしすぎているが、そう思わせるだけの影響があった、という点はほとんど正しいと言えるだろう。

しかしその「新世紀エヴァンゲリオン」は終わらなかった。少なくとも綺麗な形で着地することはなかった。まるでそれ自身が「前衛的」な作品であるかのようにすら感じられた。だから、否定する気持ちは湧いてこなかった。そして、そのような決着の曖昧さが、神聖化を進め、「きちんと終わっていない作品が、きちんと終わっていないがゆえに称賛される」という事態も招いた。偶像以外の何ものでもない。

一方で、どれだけエヴァがそのときを止めようとも、アニメは新しい作品が次々と生まれてきた。特に2011年の『魔法少女まどか☆マギカ』と2012年の『PSYCHO-PASS』は決定的だった。「社会的」「文学的」な要素が強く付与されながら、思弁的な混乱に陥っておらず、しかも作品は完結している。僕の中でエヴァによって変えられてしまったものが、そこでもう一段変えられてしまった感覚があった。正直に言って、その当りから、僕の中でエヴァはもう完全に「終わった」作品だった。たしかに素晴らしいし、面白いが、もう一度をインパクトを起こすほどの力はなく、あとはただ終わるのを見守るだけ。そういうポジションに移行していたわけだ。

悲しいことではない。世界は新陳代謝によって進むのだ。だからその変化は、言祝ぐべきものである。

そうして、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の公開日がやってきた。延期につぐ延期だったが、緊急事態宣言下であり仕方がない面もあったし、何よりここまで待っていたのだが、数ヶ月程度の延期など誤差でしかない。それよりも、ちゃんとこの作品が終わるのかどうかが気になっていた。それは、すでに終わってしまったものを、きちんと「終わらせる」ために必要な儀式であった。そうした儀式を経ないことには、僕たちの意識と身体はうまく新しい世界への切り替わりに適応できない。それがどのようなものであれ、「終わらせる」ことが大切なのだ。

結局、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』はきちんと終わりを告げていた。むしろ、想像以上の終わりを、「新世紀エヴァンゲリオン」の手法を最後まで貫徹することでそれを成し遂げていた。中途半端な妥協など、どこにもない。むしろエヴァが最後の最後までエヴァであろうとし続け、エヴァ自身の手によって幕引きが行われた。

感動、という言葉ではとても足りないだろう。中国雑技団的な技巧への関心でもない。それは、まさに本作で重ねて提示される「けじめをつける」ことであった。その覚悟があり、またそれを支える人々とその行動があった。その総体を想像しただけで、僕はもう泣きたくなってきた。

本作は多重に終わりを告げるが、一番はっきりとその終わりが自覚されたのは、自分自身の感じ方だった。中学生の頃にワクワクしてブラウン管を眺めていた一人の青年は、もはや40歳となり立派なおっさんへと変身を遂げた。言って見れば、もう14歳くらいの子どもがいてもおかしくないくらいなのだ。どれだけエヴァの世界が止まっていようとも、僕が所属するこの世界の歩みが止まることはない。

だから劇場で本作を観たとき、僕は登場するどの「子どもたち」に共感するよりも強く、ゲンドウに感情を重ねていた。あるいは、拒絶することでしか贖罪の仕方を知らないミサトさんに思いを重ねていた。エヴァにのって僕たちを助けてくれるはずの「子どもたち」は、しかし僕たちが守りたいものでもあった。

自分で終わらせる決意などなくても、もうとっくにそれは終わっていたのだ。薄々とそれに気がつきながらも、あえて目を向けようとはしていなかっただけなのだ。特に、新しい作品が湯水のごとく流れてくる現代にあって、そうしたことから目を逸らすのは極めて容易い。僕たちは、いくらでも好きな対象に「乗り移る」ことができる。『なめらかな世界とその敵』ではんなが描く人々のように。

しかし、「エヴァ」という作品はいやおうなくそれを突きつける。成長の止まった「子どもたち」と時間が進んだ大人たちの対比は、テレビ放送開始から26年という年月を過ごしてしまった自分の時間を思わずにはいられない。そんなことができるのは、まったくもって「エヴァ」という作品だけなのだ。この特殊な構造を持つ作品だけが可能な表現なのである。

すべてのカオスを生み出してなお、そのことを自身の文脈に引きつけて作品の力にする。

一定の枠組みの中でキャラクターとシナリオが「整合的」に増え続けるFGOには為し得ない達成と言えるだろう。

膨らみ切ったカオスは、誰かがけじめをつけなければならない。そして、本作はそれを為した。しかも、気持ちよくそれを行った。

冒頭に置かれている戦闘終了後のタイトル表示で、「それまでのエヴァンゲリオン」は一度終わりを告げる。そして、残された世界の物語が始まり、そこで一つの転機が生じて、作品はもう一度「エヴァンゲリオン」に、それも「最後のエヴァンゲリオン」へと突入する。その転機を生み出したのは、この世界のやさしさであり、また愛でもあった。

易いしかけと言えばそうなるかもしれない。そんな単純なものではこの世界はどうにもならず、むしろ状況を混乱させることを描いてきたのがエヴァだったのではないか。しかし、そうではないのだ。思弁的な(理念的な)愛ではなく、ただそこにいる人々(汝の隣人)を受け入れるという実践的な愛。それこそが、途方もない力を持っている。そんな青臭い装置をまっすぐに据えてきた。そして、舞台装置を含めて、そのすべてはいかにも庵野監督が好きそうな物事ばかりである。シールド装置が船の形状をしている意味? かっこいいからに決まっているだろう! という声が聞こえてきそうである。いいぞ、もっとやれ。

きっと『シン・ゴジラ』で何かしらのシフトが起こったのだろう。とても気持ちの良いシフトだ。部分的に整合があるとかないとか、そういう話はどうでもいいのだ。むしろ、つじつまを合わせようとするごとに状況は複雑になってしまう。それは、ただ自分の息子と向き合うことができなかったゲンドウが示すことでもある。そうではなく。ただ、まっすぐに、あまりにあたり前で、この人類が繰り返してきたことを、肯定すればいいのだ。

その意味で、トリッキーさに逃げることを本作はしなかった。まっすぐにけじめをつけに来た。それに対してどのような批評が行われるのかは僕にはわからない。ただ、僕はこの作品を観ている間、ほんとうにごくごく普通のシーンで号泣していた。車の中の図書館、ミサトさんの号令、ゲンドウの独白。何もかもに時間の重みが感じられた。それは、僕という人間が26年間この作品に付き合ってきた時間でもあり、人が集い、社会を形成し、助け合ってきた歴史の時間でもある。

その意味で、本作は虚構=エヴァに逃げて終わることを許さない。じわじわりと構造が解体されていく。スタジオの中から人が消えていく。それぞれの世界に、人生に変えって行く。部屋の隅でふてくされるのでもなく、かといって斜に構えて自分の仕事を避けるでもない。時間が流れ続けているリアルなそれぞれの世界への帰着を促す。

むろん、その促しが虚構作品によって行われている点も、本作は自覚している。虚構を信じられることが人間の人間たるゆえんなのは間違いない。ただし、虚構と現実が交じり合い、むしろ虚構的なものの力が目の前の現実を凌駕するとき、人はそこに閉じこめられてしまうことを──それはおそらく監督自身の感覚でもあろう──示唆しているのだ。

本作はそれを踏まえた上で、幕を引いている。エヴァシリーズは食され、すべての器は消滅していった。ただ自我があるものだけが残った。それまでとは別の在り方で。

ご都合主義と何が違うのか、とあなたは問うかもしれない。シンジが成長し、この世界の在り方が正された。すべての問題は消え去った。そんなありきたりな結末がエヴァにふさわしいのか、と。安心して欲しい、その世界ではもう「エヴァ」はない。よって「エヴァ」にふさわしいかどうかという問いも成立しない。エヴァが終わるとは、つまりはそういうことなのだ。

無限のエヴァは遠方へと消え去り、ただこの世界が残った。その残り方は、シンジの願った形ですらないのだ。彼の願望が成就した世界でも、ましてやゲンドウの願望が成就した世界でもない。誰かの願いが叶うとき、別の誰かの願いは損なわれる。

第三の槍が導いた世界は、誰かの願望の具現化ではない。そうではなく、ただそこにある世界を見つめることなのだ。あらゆるこじらせをリセットすること。正しい在り方に戻されるのではなく、歪んだ見方が解消されていくこと。

しかし、とあなたは反論するだろう。人間はバイアスを持っているのだから、「正しい見方」などはできないだろう、と。そのようなヒョロヒョロの理屈をどれだけ構築しても、僕たちの前に世界は広がっていてそれをなんのひねりもなく受け取っている事実は変わらない。それによって、世界は構築され、社会が運営されている事実を無効化できるほどの力を、ヒョロヒョロの理屈は持ち得ないのである。

ゆがみとは、強すぎる虚構の力である。その虚構は他者が構築するものもあるし、自身が構築するものもある。なんにせよ、そこに入り込むとなかなか抜け出ることができない。なぜなら、その虚構性を確認できるのは、他者の存在によってだからである。自分一人において、虚構と現実は区別できない。それを差異化するのは他人の存在であり、閉じ切った世界では、それこそ「何が正しいかはわからない」となってしまう。それはつまり、「なんでも正しくありうる」という陰謀論と背中合わせであろう。

いいかげん、もうそういうのはやめようぜ、というのが本作の一つのメッセージではないだろうか。虚構を現実とすり替えるのではなく、むしろ虚構として愉しむこと。そのために「好きにする」こと。「自分の仕事」をすること。そういう世界に返っていくこと。

そのような、メタを含めた全体的な幕引きが『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』にはあったように思う。それは単にオタクを卒業するといったことではなく(そんなことは無理である)、自分の人生にけじめをつけることを見据えるというニュアンスである。

カオスにむちゃくちゃ広げていくことは実に楽しい。しかし、どこかで風呂敷は閉じなければならない。ピリオドを打たなければならない。それは単に最後に「完」(あるいはfin.)をつけて次の文字を生まないということではなく、全体についてのけじめをつけるということである。でなければ、生み出されなかった文字は、やがて姿を変えて別の場所へと侵食してしまう。もともと虚構的な力が強い作品であれば、その影響はずっと大きくなるだろう。

だから、本作によってエヴァはたしかに終わりを告げたのだ。単にストーリーがエンディングを迎えたということだけでなく、現象としてのエヴァもまたこの地点で解体されたことになる。もう次作がないこと以上に、もうここには想像力の居場所がない、という意味での幕引きである。

だからようやく僕たちはエヴァについて語れるようになったのだ。過去形として、その在り方を辿り直せるようになったのだ。それがどれほどの困難を伴ったのかは、想像することもできない。これだけのカオスを収束させるために、どんな手腕が発揮されたのかも検討もつかない。それでもこの終わりは素直に喜べる。エヴァのない、しかしエヴァのあった世界に帰っていける。

自分の仕事をするために。

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