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『数学ガールの秘密ノート/学ぶための対話』(結城浩)

素晴らしい一冊だ。何度も頷きながら読み進めた。本書に込められたメッセージは、代々語り継ぎたくなるほどの大切さが感じられる。

もし私が本書のキャッチコピーを考えていいなら、こんな言葉を贈るだろう。

「わからない」に怯えるあなたに。

「わからない」は誰しも怖い。でも、そこから一歩踏み出した先には、心躍る世界が待っている。だからあなたも一緒に進んでいきましょう。そんな風に、本書は優しく包み込んでくれる。

概要

本書は「数学ガールの秘密ノート」シリーズの12作目だ。このシリーズは中高生でも楽しめる数学読み物がコンセプトではあるが、本作は別段数学に限らない物語である。その点は、『数学文章作法』が数学に限らない点と呼応しているだろう。広く、学びに関わる人が読み、得られることが多い内容だ。

まずぱっと思い出すのが、G. ポリアの『いかにして問題をとくか』(こちらも数学が題材だ)である。その本でポリアは、問題の解法を提示するのではなく、いかにして問題にアプローチしていくのかを解説してくれている。どちらかと言えば教える側に重心があるが、もちろん問題を解く力を向上させたい学徒が読んでも得るものは多い。本書と通じる部分は多いだろう。

しかし、ポリアの本は決して分厚くはないものの、易しく読めるかというといささか厳しい。内容ががっちり詰まっているので、読み通すにはある程度の根気が必要である。その点は『本を読む本』を読み通すために、一定のリテラシーが必要になってくるのと同じだ。入門的な内容であるにも関わらず、若干ハードルが高いのである。

その点、本書は易しく読める物語である。それこそ中高生でも興味を持って手に取り、読み進め、内容を理解することができるだろう。

本当に?

本当だと私は言っておきたい。私はすでに中高生ではないので実態はわからないが、本書の内容と書き方なら、中高生でも理解に手を伸ばせるはずである。

学びと対話

さて、本書で語られている大切なこととはなんだろうか。もちろんタイトルが示す通り、学びにおける対話の重要性である。

では、対話とは何か。二人の人間が言葉を交わしていれば、それは対話と言えるのか。そうではない。少なくとも、それだけでは学ぶための対話にはならない。では、何が必要か。

答えは、相手に向かって理解の手を伸ばすことだ。相手のことを、置かれた状況を、その発言を、その意図を、少しでも理解しようと努めること。理解しようと手を伸ばし続けること。そのために行われる対話。それが学びのための対話である。

主人公「僕」に教えられるノナは、すぐに考えることを止めてしまう。わからないことについて「わからない」と言うのではなく、「大丈夫です」と答えてしまう。自分は頭が悪いからといい、自分についてより深く知ることを避けてしまう。

怖いのだ。「わからない」は怖い。だから、「わかった」ことにしてしまう。ほんとうは、ぜんぜんわかっていないのに、そこで手を止めてしまう。

「僕」は、そのノナに手を伸ばすことを伝えようと、必死に手を伸ばす。ノナはノナなりの理解の仕方があり、歩み方があると考えて、なんとか自分の伝え方を変えようとする。その誠実な姿勢を受けて、ノナも臆病ながら手を伸ばそうとしはじめる。その感応こそが、本書の醍醐味であろう。

本書では、暗記と理解の対比が何度も出てくる。暗記、つまり意味の把握を介在しない対象の摂取は、結局のところ、わかってはいないもののわかったことにして通り過ぎようとする態度だ。

これは数学の公式ばかりではない。自分について自分が貼るレッテルだってそうなのだ。「そういうこと」にしておき、もうそれ以上はその対象については考えないようにすること。その態度は、納得も発見ももたらさない。素晴らしい喜びはどこからもやってこない。

そう。理解することは、そうすれば応用が効いていろいろな問題が解けるという実際的なメリットがあるだけではない。理解は楽しいのだ。理解は、自分がこの世界と僅かでも接続した感覚を味わえる。そのことを知っているから、「僕」は決して手を離さない。むしろ、自分から手を伸ばそうとする。

「僕」は次のように語りかける。

「そうだよ、ノナちゃんは、ノナちゃん自身の先生になるんだ」

そうすることで、彼女は自分自身との対話を開始できる。自分の理解について関心を持ち、問題についてさまざまな角度から検討できるようになる。彼女は数学を発見し、その過程で新しい自分をも発見するだろう。それが「わからない」との付き合い方なのである。

これは何も教わる側だけの話ではない。教える側の人間も、「わからない」との付き合い方を学んでいかなければならない。

たとえば、相手がどう理解しているのかがわからないのは怖い。だから、自分が想定する「わかりかた」で話を進めてしまう。当然、相手は置き去りだ。そのとき、「ちょっとその方向間違っています」とはっきりサインを出してくれるなら、教える方は楽チンだ。その瞬間に、相手の「わからない」がわかるようになるからだ。でも、そうでないならば、こちらから手を伸ばさなければならない。たとえ怖くても、相手の「わからない」を少しでもわかろうと努めなけれならない。そうしないと、学びのための対話は成立しないだろう。手は両方から伸びてこそ、つなげるものなのだから。

■ ■ ■

といった話も結局は私のモノローグである。本書が伝えたいメッセージは、やはり対話を通してこそ、よりはっきりと浮かび上がってくるものだろう。

だからまあ、とりあえずは読んでみるといい。ここから第一章を立ち読みすることもできる。

きっと、学びの前にはたくさんの恐怖があり、何かを伝えるということは、事実を正確に述べさえすれば完了で、後は相手の問題であるという態度がいかに物足りないのかが見えてくるだろう。ノナの話し方にイライラする人ほど、本書は刺さるものが多いはずだ。


結城浩 [SBクリエイティブ 2019]

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