新海誠監督の最新作。私は『君の名は。』で新海作品デビューしたので、本作が二回目の新海体験となる。
タイムラインで噂を聞き込むに、「僕らの新海が帰ってきた」という評が多かった。何がその「新海らしさ」なのかは新海初心者の私にはつかめないが、『君の名は。』とは異なる作風なのだろうと心の受け身の準備をして映画館に向かった。
正直、物語のテンポとして序盤〜中盤はもたついていた印象はある。主人公のモノローグで話を進めすぎている感覚もあった。が、そういうモヤモヤも、後半からの怒濤の展開でひっくり返される。おいおい、それで話を進めちゃうの。それで大丈夫なの。という心配が駆け巡るが、「ということもあったけど、やっぱり世界は元通りに……」などという語りはいつまで経ってもやってこなかった。
そういう意味で、ごく平凡なカタルシスを期待していると肩すかしを食らうだろう。しかし、まさにその展開こそが私が本作を楽しんだ理由である。イマジネーションの力とはかくもすごいものかと圧倒された。ビジュアルの美しさや、音楽との融和など、本作を評価する点はさまざまあるだろうが、何にもまして、私はエンディングまでの道行きに心惹かれたのだ。
本作は、セカイ系と言えばセカイ系だろうし、その視点からの論評もあるだろうが、今この現代においてセカイ系というカテゴリがどれだけ力を持っているのかは私にはよくわからない。それに、本作のモチーフも全体的に「現代的」ではない。家出して東京、拳銃、キャッチャー・イン・ザ・ライ。登場するITテクノロジーを10年前に戻しても、ほとんど破綻なく本作は語れるだろう。
それでいてなお、本作が2019年に封切られる理由は何だろうか。人類は、その生誕から天気と付き合ってきた。気候が荒れすぎればそもそも生きていけないが、しかし、雨が降らないと食物は実らず、動物たちも飢え、人類も立ちゆかなくなる。しかしながら、天気というのは、人類の意のままにならないものの代表でもある。
そこで人類は、祈った。作品にも出てくるてるてる坊主などは身近なその例であろう。テクノロジーのように、自然を意のままに従わせるのではなく、こちらの意を天気に届ける、という形によって、天気と人類の調和を願ったのだ。
しかし、現代の人類は、あらゆる自然現象を意のままに従わせることに躍起になっている。その対象は、人類という形そのものにも向いている。その道行きの到着点は、一体どこなのだろうか。そして、そのとき人類は何を体験するだろうか。
もともと、自然現象は人類を活かすために調整されているわけではない。それらは好き勝手に降り、好き勝手に上がるものだ。その環境の中で、私たち人類が生きている。それだけの話なのだ。だから、もともと世界は狂っているのである。人類という視点から見れば。
その上で、私たちは何を選択するのだろうか。どのような世界をその手に掴み取るのだろうか。
とまあ、いろいろ書いているが、実際的に言えば、この作品は須賀さんの物語でもある。大人になってしまった、青年の物語。本作がセカイ系なのだとしても、それに十全に浸かり切らないのは、彼の存在があるように思う。
彼は、主人公たちの冒険を半分理解している。しかし、もう半分は理解せずに、彼らの選択の結果を「思い込み」だと一蹴する。それは、大人の無理解であると共に、優しさでもある。
たとえ、大人であっても、いや、大人であるがゆえに、自分がなぜ涙を流しているのか、わからないときがある。自分の行動を、自分で説明できないことがある。それが、人間というものである。
人間には、どこかしら無理解が付きまとっている。世界についても、他者についても、そして自分についても。あるいは、そのことを知っているのが、大人なのかもしれない。
KADOKAWA (2019-07-18)
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原作・脚本・監督:新海誠