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ロングテールとリトル・ピープル(6)

前回までで、大きな物語が解体され、小さな物語へと進んでいくこと、しかし小さな物語は私たちの社会を分断してしまう可能性があることを確認した。大きな物語の崩壊については、ローカル化というキーワードでまた改めて考察してみるつもりだが、今は話を先に進めるとしよう。

考えたいのは、問題の解決策、あるいは状況の打開策である。

大きな物語もダメ、小さな物語でもダメ、ということになると、安直に「では、中ぐらいの物語であれば、どうだろう」という発想が浮かんでくる。つまり、巨大すぎる単一の権力でもなく、かといって細分化されすぎて、タコツボ化・カルト化が進みすぎるほどでもない、という状態である。人々が個を保持しながらも、単一の規範に押しつぶされないような良いところ取りの物語が語られれば良いのではないか。

一見それは、好ましいように思える。ただし、そんな線引きがはたして可能なのかの問題もある。さらに可能であるにしても、求心力が継続するのかの問題もある。最悪の場合、良いところ取りではなく、悪いところ取りになってしまかもしれない。

まず、そんな線引きが存在可能なのかについて考えよう。

「中ぐらい」といったとき、そのサイズ感はどれくらいになるだろうか。一つの国家(国民国家という物語を必要とする主体)であれば、それは大きな物語であろう。つまり、それよりは小さいということになる。では、州単位(日本で言えば都道府県単位)あたりが中ぐらいの候補であろうか。

しかし、日本とアメリカを比べてみれば分かるように、そのような行政単位でも人口には大きな違いがある。そもそも、一つの国家ですら比較するのが難しいほどの違いがある。つまり、この場合、大きな物語が包括するのは、不特定多数というマス、言い換えればお互いに顔も知らない人間たちの集合である。そして、その規模は砂山の定義と同じで、明確な線引きを持たない。

たくさんの砂が集まった砂山を考えてみよう。ピンセットでも使って、そこから砂を一粒取り去る。もちろん、砂山は砂山のままである。では、二粒取ればどうか、三粒ではどうか。もちろん、砂山は砂山のままである。しかし、それを繰り返していくと、どこかでそれは砂山とは呼ばべないものになる。たった一粒残された砂粒は、砂粒であって砂山ではない。

これと同じで、規模を(そこに集合している人間の数を)小さくしていったからといって、大きな物語が中ぐらいになるわけではない。大きな物語は、どこかの時点でいきなり大きな物語として成立し、そこに段階的(線形的)成長があるわけではない。

乱暴に言えば、大きな物語とはトップダウンによる規範の統一であり、集合の数を小さくしても、その構造が変わっていなければ、大きな物語は大きな物語で在り続ける。つまり、中ぐらいの物語、という枠組み自体が思考実験の中にしか存在しえない可能性が高い。

しかも、である。

仮にそういう規模が想定しえたとしても、それが中長期的に人々をつなぎ止めておけるのかは、さらに微妙だ。なにせ、中くらいの物語は、国家を成立させるような絶対性を持たないし、逆にGoogleのカスタマイズように個別への最適性を持たない。

そのような存在は、人間の脳の感情的側面からすれば、ひどく曖昧で、中途半端な存であろう。魅力がないのだ。

世の中のスピードが早まっていくほど、曖昧なもの中途半端なものは投げ捨てられる。デジタル化するためには白か黒かを決めなければいけない。それが高速度情報処理に置いて必須の要件なのだ。中ぐらいの物語なんていう、きわめてアナログな物語は、希求力を持たないだろう。

では、逃げ道はないのだろうか。私たちは、個人を没させる大きな物語に吸収されるか、自分があまりにも大きくなりすぎて社会を疎外してしまうような小さな物語に満たされるしかないのだろうか。

一つの希望、いや期待はあるように思う。

(つづく)

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