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言語の他者性と洗脳への両原理

こういうときってありますよね。「あっ、わからない」って感じるとき。でも、まあ、わからなくていいんだ、というくらいで読み進めていくのが吉だと思います。というか、わかっていることを確認するだけならわざわざ本を読む必要ないわけで、わからない何かとぶつかることはほとんど必定です。

とりあえず、

つまり、言語の他者性は、環境による洗脳と、環境からの脱洗脳の、両方の原理になっている。

の部分は、「言語の他者性」というものがあり、それは相反する力の両方のメカニズムになっている、ということさえ理解しておけば、だいたいOKじゃないかと思います。それで、最後まで読んでもう一回頭から読むと、この部分がスルりとわかったりすることもありますしね。まあ、わからない場合もあるわけですが。

で、一応少し野暮に解説しておくと、たとえば目の前に傘があるとして、あなたの実感では、その傘は「ドミトルセンバー」と呼びたいものだとしましょう。で、実際的にそれをそう呼ぶことは、世界の原理には何も反しないわけです。細長い棒状の雨つぶを防ぐための雨具を「ドミトルセンバー」と呼んでも構いませんし、もちろん「傘」と呼んでも構いません。そこにあるものと、それをどう呼ぶのかは、世界のルールとして定められているわけではなく、恣意的なつまり一種の「決まり事」でしかありません。それが本書で書かれている、

言語それ自体は、現実から分離している。

ということの意味です。

でも、あなたはそれを「傘」と呼びます。なぜか。そうしないと他者と意思の疎通ができないからです。「ちょっと、ドミトルセンバーを取ってきて」と言っても、「?」という顔を浮かべられてしまうでしょう。だから、あなたは「傘」という名前を用いて言葉を発します。そして、そのように言葉を使うことを、私たちは意識していません。傘を見たら、それを自然と傘と呼びます。それは言葉を学習したからですが、その学習とは「他の人がこれを傘と呼んでいる」という一種の経験的事実を指します。世界の根本原理とを学んだわけではなく、あくまで習慣的用法として、そこにあるものと、それがどう他者によって呼ばれているかを学んだだけなのです。

つまり、言語の学習とは、「他の人が使っている言葉遣いをインストールする」ということなのです。で、その言葉遣いというのは、世界認識とかなりの部分重なります。ある言葉遣いでは、ミカンと夏みかんを共に「ベルバット」と呼ぶかもしれません。そう呼ぶということは、認識に置いて両者に違いはない、ということを意味します。世界の見え方が違っているのです。あるいは、ある言葉遣いでは、コーヒーとコーヒーカップがかちりとセットになっているときにだけ、それを「マルゲンダ−」と呼ぶかもしれません。そのとき他の言葉遣いでは二つのものが一緒に並んでいるだけなのに対し、その言葉遣いでは一つの融合したものがそこにあることになります。これまた世界認識が違っているのです。

つまり、言葉を覚えるということは、そのような他者の世界認識をインストールする、ということとイコールなわけです。それが本書で書かれている、

言語を通して、私たちは、他者に乗っ取られている。

ということの意味です。

ここまでくれば、最初の言葉の意味が少しずつ見えてきます。

まず、「環境による洗脳」とは、まさしく言葉遣いを覚えることによって、世界認識をインストールすることです。それを私たちは幼少期から無意識のうちに行っています。

しかし、その言葉遣いというものは、ある種の恣意的な「決まり事」でしかないのでした。傘を「ドミトルセンバー」と呼ぶことはいつだって可能なのです。そう呼ぶことで、これまでコミュニケーションを取れていた人からは、異形の目で見つめられるかもしれませんが、むしろそれこそが、これまでの言葉遣いによって適応していた(本書の言葉を借りれば洗脳されていた)環境からの逸脱(脱洗脳)を可能にしてくれます。

もしそこにあるものとその名前が、世界の原理的に対応していて絶対に変えられないものであれば、この脱洗脳は不可能でしょう。「傘」は傘と呼ぶしかないからです。しかし、現実の世界は「ドミトルセンバー」という呼称を可能としています。もちろん、他の言葉だってそうです。で、そうやって、言葉を「浮かせる」ことで、自分自身も「浮く」ことになり、それが環境の移動を可能にしてくれる、

というのが、冒頭の文章の私的な解釈です。まあ、盛大に読み間違えている可能性もありますが、こういう解釈を私がした、というサンプルとしてお読み頂ければ幸いです。

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