0

『ベストセラーコード』(ジョディ・アーチャー、マシュー・ジョッカーズ)

自らの手で小説を書こうなどと考えている人は、「コンピュータに小説を解析させる」と聞くと反吐が出るに違いない。人間に小説を書かせて、それを売ろうとしている出版社だって、冒涜的なものを見つめる表情を浮かべるだろう。

しかし、改めて考えてみたい。それはそんなに奇想天外なアプローチだろうか。

出版業は、コンテンツビジネスであり、かなりの程度のリスクを含む。情報は、どのように受容されるのかが事前には予測できない。よって、どの本が売れるのかわからない段階から投資先の決定が必要なわけで、そこには博打的側面が必ず含まれる。

それを補うのが、「現場で鍛えられた直感」であり、歴戦の出版社(あるいは編集者)が内容の良し悪し、タイトルの付け方、表紙作りについて判断を下す。人間の直感はたいしたものなので、それでだいたいはうまく行くのだろうが、大きく外してしまうこともある(実例を挙げる必要はないだろう)。また、ロジックによる決断でもないので、その精度が勘以上にあがることもほとんどない。フィードバックとして得られる情報が少なすぎる上、人間のバイアスがそれらの情報を歪めるので、直感頼りの決断をしている限り、バージョンアップされないのだ。つまり、ヤマカンの世界である。

これまでの出版業界は、それが当たり前として運営されていたのではないだろうか。だからこそ、逆説的ではあるが、「前例」が重視されるという傾向も生まれてくる。ヤマカンが当たり前の世界で、唯一信頼に値するデータが「類書の売れ行き」だからだ。しかし、類書といっても、世界に二つと同じ本はないわけだから(つまり、何が同じで何が違うのかの客観的な基準は存在しないのだから)、そのデータの有用性も眉唾ではある。

そのような状況に一石を投じようとしているのが、著者二人である。

J・K・ローリングが、世界的ヒットを生み出す原稿をいくつもの出版社から断られたのは有名な話である。歴戦の出版社だって、「売れる本」を見逃すことはあるのだ。

ハリー・ポッターと賢者の石 1-1 (ハリー・ポッター文庫)

しかし、面白いことにJ・K・ローリングがロバート・ガルブレイスという別名義で書いた小説は、すぐに著者が特定されてしまった。出版社はローリングの「刻印」を見逃すことはなかった、というわけだ。ちなにみ、スティーヴン・キングも似たようなこと(リチャード・バックマン名義での出版)をしているが、それも読者によって見破られたらしい。

つまり、出版社が見逃しているものと、読者が見逃さないものがあるわけである。

本書は、その「読者が見逃さない」ものに焦点を当てている。ベストセラーとなるような本は、きっとその「読者が見逃さない」性質において共通点を持つのではないか、という一見ありきたりなようで、奇抜な発想である。

なにが奇抜なのかと言えば、どうみてもベストセラーリストに共通点は見られないからだ。日本の小説投稿系サイトでは、流行り物の世界設定がランキングを席巻することがあるらしいが、さすがに書籍のランキングはそんなことにはなっていない。ジャンルもテーマも文体(語り口)も違う本ばかりである。共通点なんかあるわけがない──ように思える。

一方、そもそもの物語には母型がある。比較神話学では、さまざまな文化に存在している神話に見られる普遍的なテーマが探求されているわけだが、レヴィ=ストロースの言い方を借りれば、そこには「構造」があると言う。ベストセラー小説も物語なわけだから、そこに共通する構造を見出せると考えるのはそれほど奇抜なものではないだろう。

千の顔をもつ英雄〔新訳版〕上 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

構造・神話・労働 (新装版)―クロード・レヴィ=ストロース日本講演集

ポイントは、神話とベストセラーの共通点にある。

どちらも、ニッチ向けではない。多くの人に受容された物語である。極めて限られた嗜好の持ち主だけに好まれるのではなく、広く受容されているという点こそが、それぞれの作品に何かしらの共通項があるのではないか、という推測を支えてくれる。トルストイの言葉を拝借すれば、「ベストセラーはどれも似たものだが、ニッチな本はいずれもそれぞれにニッチなものである」みたいな言い方ができるかもしれない。

アンナ・カレーニナ〈上〉 (新潮文庫)

一方、フレデリック・ルヴィロワ の『ベストセラーの世界史』では、ベストセラーというのは基本的に環境による運や、施策(つまりマーケティング)によって生まれると説く。その視点においては、作品の質はほとんどまったく関係がない。ルイ=フェルディナン・セリーヌの言葉として引用されている「ヒットした作品というものは、必ずひどい駄作なのです」が、如実にその考え方を表明しているだろう。質は関係ないどころか、劣っているとまで言われているのだ。

ベストセラーの世界史 (ヒストリカル・スタディーズ)

しかし、これは一つの事柄を両面から見ているに過ぎないだろう。セリーヌが駄作として切り捨てているのは、ようは大衆向けの作品であり、逆に彼が高く評価しているのは「文学的価値が高い」という評される作品である。つまり、「わかる人にはわかる」作品だ。そして、「わかる人にはわかる」作品が、大衆に支持されることはほとんどないだろう。つまり、ベストセラーになることはない。

ここには何も難しい話はない。弁証法的葛藤も、思考の脱構築も必要ない。「多くの人に受け入れられたければ、多くの人が好む作品を書け」というだけの話である。もしかしたら、そのような行為は文学者にとっては文学的営為とは言えないかもしれない。しかし、ベストセラー作家は別に文学的営為を目指して執筆しているわけではない。結局のところ、プレイしているゲームが違うわけだ。

この点に関して、書き手は一度はっきりさせておいた方がいいだろう。「わかる人にはわかる」で良いのか、そうではないのか。一番こじらせやすいのは、当初そうではなかったにも関わらず、技術不足で思うような読者が得られずに、「わかる人にわかればいいんだ」と自分を納得させることである。心の中では、十分にその葛藤が解消できていないと、世の中すべてを呪いたくなってくる。広く読んでもらいたいなら、比翼読んでもらえるように書く必要があるし、そのためにはどんなものが読まれるのかを研究し、技術を向上させなければいけない。『数学文章作法』でたびたび出てくる「読者のことを考える」という原則だ。

数学文章作法 基礎編 (ちくま学芸文庫)

以上のようなことは、読者に媚びへつらえだとか、流行り物の二番煎じを書けばいい、という話にはつながらない。むしろ想像してみるといい。読者にただ媚びへつらっている書き手や、流行り物を追いかけている書き手が「読者のことを考えて」いるのかを。むしろ、彼には現実的な読者というものがまったく目に移っていないのではないだろうか。本当に目を向けなければならないのは、傲慢な理想や、世界への憎悪ではなく、自分が今書き下ろしたテキストが、読者にどのような印象を与えるか、だろう。

本書は、コンピュータの解析によって、その視点を与えてくれる。著者らは最終的に、新しく生まれた小説を評価するモデルを確立したいらしい。それによって、本来なら日の目を見るはずだった小説が埋没しない世界を実現したいらしい。たしかに、J・K・ローリングがどこかの時点で諦めていたら、書店の売上げに少なからずの損害が生じていただろう。そういうことがないように、売れる小説があったら、それを見つけられるようにしたい、と願っているらしい。

たぶんそのような申し出を嬉しく思う書き手もいれば、名誉を毀損されたかのように感じる書き手もいるだろう。自分の小説は読めばその価値がわかる。コンピュータの助けを借りなくても大丈夫だ。そもそもコンピュータに「認めてもら」わなければ出版できないんて、どこか間違っている、と。

たしかにその言い分は筋が通っているように思える。私も、コンピュータ編集者に自作をあれこれ言われたくない気持ちはある。が、しかし、コンピュータは別にコンピュータ的好みで作品を判断しているわけではない(「うんうん、この文章はアルゴリズム処理しやすいな」)。単にベストセラー小説に潜むある種の共通項と似たパターンがその作品にあるのかを判定しているだけであり、おおもとのベストセラー小説はまさに読者によって支持されているわけだから、モデルの向こう側にはきちんと人がいるのだ。出版社の立場から言えば、どうせ穴を掘るなら、地質検査をして、奥に石油が潜んでいる可能性が高いところを掘りたいだろう。ビジネス判断としてはごくまっとうである。むしろ、そのモデルに適合しているなら、どれほど奇抜な作品でも出版の可能性が生まれてくる、と考えれば、類書しか出版できない状況よりもはるかに多様性の可能性は広がるのではないか、という気もしてくる。

もちろん僕たちは、Googleの検索プラットフォーム独占と、そのアルゴリズムハッキングによる「強SEO」によって、怪しい医療情報を浴びるように閲覧させられていたことに思いを馳せないわけにはいかない。モデルによる出版の是非判断が、同種の事態を引き起こさないと言い切るのは難しい。ただし、違いもある。なにせ小説は350ページ以上もあり、その全文が解析される。モデルに沿うように350ページ分の「物語」を紡ぐのは、なかなか簡単ではない。少なくとも、(登場人物名だけを変えた乱雑なコピペは除いて)、クラウドワーク的なものによる安価なページのハッキングは難しいだろう。だからモデルがあっても、大丈夫ということはある程度までなら言えそうに思える。

それでも、と、僕の心の中の声は叫んでくる。たとえば『響~小説家になる方法~』のような、非凡な才能を持つ小説家が、編集者によって見出され、世間へと飛び出していくようなストーリーにやっぱり心を動かされてしまう。「あなたの小説は、モデルがベストセラーになる確率を99%と判断しました。ぜひ当社と契約してください」では、あまりにもドラマがないではないか。

響~小説家になる方法~(1) (ビッグコミックス)

でも、それすらもたわいない幻想なのかもしれない。どのように見出されようとも、人の心動かす小説は、やっぱり人の心を動かす。それが文学的営為でなくても、人間の編集者によって見出されていなくても同じだ。作品は、常に読者に向かって語りかけてくる。

だからこそ、本書で明らかにされる小説の技法(というか書き方の傾向)が、ディーン・R. クーンツの『ベストセラー小説の書き方』やスティーヴン・キングの『書くことについて』と重なる部分が多いのだろう。結局、根源は同じなのだ。

ベストセラー小説の書き方 (朝日文庫)

書くことについて (小学館文庫)

とは言え、本書が解析しているのは、ニューヨークタイムズのベストセラー・リストである。まったく同じ話が日本で通用するのかは、少し判断を待った方がいいだろう。とは言え、キングもグリシャムも日本でも人気であるので、やはりそこには神話的な共時性があるのかもしれない。

ベストセラーコード
ジョディ・アーチャー、マシュー・ジョッカーズ 翻訳:川添節子 [日経BP社 2017]

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です