人でなし、という言葉はもちろん人に向けて放たれる。
人でありながら、人とは呼べないような立ち振る舞いをする存在に、侮辱とも断罪ともつかないような口調で放たれるのだ。
では、逆はどうだろうか。
人ではないものの、人と見まがうような立ち振る舞いをする存在。我々はその存在をなんと呼ぶだろうか。どのように声をかけるだろうか。
「人でなし」でなし。つまり、人だ。
アニメ『アリスと蔵六』の第四話「人でないモノ」は、まさにそのような話であった。
蔵六の声が大塚明夫さんなのは、人でないものを愛でる立ち位置としてのバトーとタチコマだからということが4話という佐藤大さんの解説がすごい #団地団
— いしたにまさき(mitaimon) (@masakiishitani) 2017年4月24日
人間とは何か? 自分からみて人間らしく思えるものである。生物学定義は別にあるだろうが、認識的にはこうに違いない。チューリング・テストが示すものも同じだ。私たちが(広義の)他者を「人間らしく」捉えるならば、それは他の「人間らしい」人間と変わりがない。それが人ならざるモノであろうと、ユニークな多脚戦車であろうと、高度なAIであろうと同じである。
「人間だ」と認識する主体こそが、「人間」を作るのである。
※だから「人間」はひとりでは存在できない。
そして、あらゆる認識(観測)が干渉であるように、その存在に向けられた認識と愛情の視線は、その存在に本質的な影響を及ぼす。蔵六から「人間」として扱われた紗名がそうであったように、バトー専用機として遇されていたタチコマがそうであったように、名前を与えられた(別の作品の)アリスがそうであったように。
※名を与えるという行為は、相手を認識した上で、その認識を相手に向けて宣言する行為でもある。
そんなことを考えながら、『アリスと蔵六』の第四話を観ていたら、途中からボロボロと泣けてきた。車の中で、蔵六が紗名に語りかけるシーンは、深い慈愛に満ちあふれている。そこにあるのは、極めてシンプルな理屈でしかない。難解な哲学はどこにもなく、人間的な実感とそれに基づく倫理観があるだけだ。でも、だからこそ、それは強力で折れにくい。
『AIの遺電子』などでも示されているが、これからの私たちの社会は「人間」と、それをとりまく(人との)境界線が曖昧な存在との共存に向かって進んでいくだろう。そこではひどくややこしい話が持ち上がってくるようにも感じられるが、一周回ってみれば、落ち着くところはすごくシンプルな場所ということもあるだろう。蔵六が示した慈愛は、その可能性を示している。
とは言え、『サピエンス全史』の最後で著者のユヴァル・ノア・ハラリが述べているように、今後私たちがどうありたいと願うのかは重要な要素である。
もし私たちが、何かを認識する主体であることを望まないのならば、上の話はきれいさっぱり消え去ってしまう。その世界では、苦悩はすべて消え去り、穏やかな幸福が満ちあふれているのだとしても、「人間」はひとりも存在しないだろう。
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アリスと蔵六
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