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『ツイッター哲学 別のしかたで 』(千葉雅也)

タイトルのツイッター哲学とはなんだろうか。

率直に考えれば、Twitterという短文投稿プラットフォームに関する哲学であろう。あるいは、少しひねってそのようなTwitterにおいて実践される哲学であるとも捉えられる。

本書は、おおむねその両方を意味している。Twitterに関する哲学であり、Twitterで行われる哲学である。そして、その両方をまたぎながら営まれるより大きな哲学へのまなざしでもあるとも感じる。

とはいえ、そんなにかしこまる必要はない。むしろかしこまらないことにこそTwitter哲学の矜持がある。日常に寄りそう短文。それこそがTwitterの本領であり本義であるからだ。よって本書も気軽に読んでいける。なにせもとは著者のツイートである。一つの塊が140字以上になることはない。

だったら本書はツイートの寄せ集めでしかないのだろうか。むろん、そんなことはない。むしろその「そんなことはない」という点が本書のツイッター哲学たる所以である。

本書に集められたつぶやきたちは、まず「集められている」という点でタイムラインに並ぶツイートとは異なる。むしろ私たちは、同じものを別の見方で見たときにその「異なり」方を感じることができる。情報はそれ単独で摂取することはできない。私たちは常にある文脈の中でそれぞれの情報を位置づけている。だから、ツイートの並びが変わっただけで、その受け取り方が変わってしまう。たくさんの人々のツイートが並ぶタイムラインから、書籍というインクがにじむ場所に移動するだけで、言葉の感触は変質する。逆に言えば、私たちが常に文脈の中で情報を摂取していることそれ自体は、同じ情報を別の文脈で眺めてみることでしか体験できない。本書の面白さはまずその点にある。

しかし、それだけではない。ツイートと本書の一番大きいとも言える違いは、タイトルがついていることである。

たとえば、以下のような「つぶやき」がある。

すぐ分解する
困ったこと、気乗りしないことは対処可能な細かいアクションにすぐ分解すること。

これは「4 変化について」に収められた一文だが、ぱっとみるとそのタイトルはなんてことがないように思える。単に文中の言葉の一つを頭に据えただけのように思える。しかし、まさにTwitterとはこうしたタイトル抜きでつぶやきはじめられるのが最大の特徴なのである。もし毎回の投稿にタイトルづけが必須なら、今存在する全世界のツイート数は半分以下になっていただろう。考えてみればいい、何かぼそっと口に出してつぶやくとき、あなたはそのつぶやきの「タイトル」を考えているだろうか。

つぶやき的思考とは、あるいはつぶやき的思考の吐露とは非タイトル的なものである。わずかにタイトルをつけるだけで、急激にそこからはつぶやき性が失われていく。たった6文字のタイトルが、それくらいに性質を変えてしまうものなのだ。加えていえば、このタイトルづけですら知的に簡単なものではない。「アクションの分解」や「困ったときは分解する」など、いくつものありうるタイトルが考えられる。そのうちのどれかを選ばなければならない。それはひどく認知資源を消耗させる行為だし、だからこそ逆説的にTwitterはつぶやきやすいのである。

だったら、その楽さにまかせてつぶやきまくっていればいいのかというと、そうではない。そうではないからこそ、本書は「本」という形になっている。

ツイートは楽だ。タイトルもいらないし、140字しか書けないのでそもそも「すべてを言い尽くそう」というような欲求がはじめから去勢されている。その上、書いたものを「手直し」することができない。残すか、消すか。その二択である。ちまちました修正の可能性は徹底的に拒絶されている。このすべてが「楽さ」に関わっている。

一方で、そうしてつぶやかれたものは、時間と共に押し流され、いずれ私たちの目からは消え去ってしまう。姿形を変えることなく、視界の外へと遠ざかってしまう。あたかも棺に詰め込まれて埋葬された死体であるかのように。

「つぶやく」=編集不可能な状態におく、ということは切断であり、つまりは固定である。固定であるからこそ、私たちはつぶやき終えたときに達成感を得ることができる。しかしそれは、コンテンツの完成を意味しない。なぜなら、はじめから可能性は去勢されていたのであった。すべてを言い尽くそうとは意図していないのであった。それは大きなケーキにナイフを入れたかのような断面の提示でしかない。他の有り様は、いくらでも考えられるのだ。

ツイートが編纂され、一冊の本になることでそうした別様の可能性が提示される。そこで新しく文脈が編まれ、一つの断片は違った読まれ方の可能性を獲得する。別の場所に固定され、より長期的に残るであろう形へと変身する。もちろん、本が完成というわけではない。本もまた一つのケーキの断面に過ぎない。この営みは基本的に終わりがなく、ただ肉体の有限性がその限界を規定するだけである。

Twitterにも有限性はあり、紙面や本にも有限性がある。そしてもちろん、人間にも有限性はある。無限につらなるのは、ただ言葉だけだろう。概念と記号。それだけが悠々と無限に接続している。私たちはメディアを渡り歩きながら、無限というケーキに切り入れられる断片をそのときどきにに楽しむだけだ。

* * *

ツイートは日常を切りとる。ただ切りとるのではなく、その人のレンズで世界を切りとる。つまり、大切なのは切りとられた結果ではない。むしろ、そのレンズの解像度や画角であるはずだ。ツイートはやおうなしに、それを伝えてしまう。

断片であるからこそ、芳醇に伝えるものがある(あるいは、匂わせるものがある)というのは矛盾でも逆説でもなく、単なる真理にすぎない。選ばれた断片は、選ばれなかった断片をその背後に(まるで亡霊のように)背負っているのだから。

本書には日常空間の中にある哲学的な思考、ないしはその視点を感じさせるツイートがたくさん収められているが、それでいて「いかにも哲学している」という気持ちにさせない何かがある。「構え」は解かれている。だからこそ、その思考がダイレクトに飛び込んでくるのだろう。まさしくツイッター哲学なのだ。

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