Lifehacking Newsletter 2016 #19より
これはスマートペン全般に言えることなのですが、使っていていきなり難しい判断を迫られるのはいったいどちらがオリジナルなのだろうかという問題です。ノートに書かれた筆跡か、それともデジタル化された画像のほうなのか。
これについてはちょっと意地悪な答え方ができて、ようは両方がオリジナルだと言えます。つまり、ぜんぜん別のものです。
もし、手書きで書いたノートが、自動的にデジタルでも保存されるのであれば、そしてそれだけしかできないのであれば、オリジナルは手書きの方で、デジタルはバックアップ・コピーでしかありません。しかし、そうしたデータに編集的意味を加えられるようになるならば、それはもう一つの、そして別の着地点を持つ新しいオリジナルが生まれたと見てよいでしょう。
タイムトラベル的SFの表現を拝借すれば、デジタル上でノートが再現された瞬間に、もう一つのノートの世界線が生まれるわけです。当然、それぞれの道行きは違っています。
イラストで考えてみましょう。
ノートの上でスケッチを描く。それが自動的にデジタルで再現される。ようは線画をトレースしたようなものですね。あとは、そこに色を付け、影を付け、その他の装飾を施して、「絵」を完成に近づけていきます。
後者の道行きはこのようなものです。
しかし、文章ではどうでしょうか。文章の完成は、色を付けたりすることでしょうか。もちろん、違います。着想を膨らませ、文章を肉付けし、事実関係を確認したうえで、かっちょいい引用を沿えて、読みものとしての体裁を整えていくことです。
この道行きに、デジタルペンは役立つでしょうか。
あえて極端な言い方をしましょう。スケッチブックの未来と、ノートブックの未来は違います。
「書くこと」について考える上では、二つの点に注目すれば良いでしょう。それは「どこに」「なにを」書くか、ということです。
こういうときは5W1Hが基本ですが、「いつ」は、「どこに」に融合しますし__歩いているときにA4サイズのノートブックに書き込むのは至難の業でしょう__、「どのように」は「なにを」と密接に関係します__万年筆でマインドマップを描いてみてください__。
「だれが」は、もちろん私なので問う必要はありませんし、「なぜ」は先回りして考えてはいけないことなので、ここではスルーできます。だから、「どこに」「なにを」書くのか、に注目すればいいのです。
「どこに」は、大きく二つ、メモとノートブックがあります。ざっくり言えば、使い捨てるものか、残すものかの二分です。
私はまず「ノートブックに書く」という行為を、特別に、非常に特別に捉えた方が良いと考えています。ただし、それを論じる余地はここではありませんので、流しておきましょう。
「どこに」を「ノートブック」に設定すると、次は「なにを」書くかの問題です。次のように、堀さんは重要な指摘をされています。
手がきのノートは読まれるために書かれるものです。おもに読むのは自分です。それに対して、多くの人は本のように読まれるためではなく、単に人に伝えるためにメールを書き、つぶやきを書き、LINEのスタンプを送信します。文字は媒体にすぎなくて可能ならバイパスしたい邪魔者なのです。
「本のように読まれるため」との表現があります。そうです。一口に「読む」と言い方をしても、その内実にはバリエーションがあります。
たとえばチラシを渡されて「ちょっとこれ読んでおいてください」と言われたとき、そこで意味されているのは、「目を通す」や「見る」といった行為でしょう。しかし、ある種の本と関係性を持つときに使う「読む」は、それとはまったく異質です。
勝負の世界では、「良い感じだ。今日は読みが冴えている」なんて言い方をします。ここでの「読む」は、推測であり、未知との遭遇であり、未来を現在に、他者を自分に引きつける行為です。チラシに目を通すのとはぜんぜん違います。この違いについてはどれだけ注意してもしすぎることはありません。
だから、ノートブックに「自分が読むためのもの」を残していくというとき、私たちは書くこと以上に、読むことにも意識を向ける必要があるのです。
もう一度書きます。「ノートブックに書く」という行為は、一般的に想像されているよりもはるかに重要なものです。ノートブックやペンの未来も、その重要性を(踏み外すことなく)踏まえた上で発展してもらいと願うばかりです。