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『みんな政治でバカになる』(綿野恵太)

本書は、新しい人間観に基づく政治参画を提言している。『ヤバい社会学』や『ヤバい経済学』などをもじれば、「ヤバい公共学」になるだろうか。

では、新しい人間観とは何か。インディペントな「個」に至るのはなかなか難しい、という人間観である。つまり、適切な情報が与えられれば、合理的な判断を下し、自律的に行動していける存在、ではないものとして人間を捉え、その上でどう「政治」についてコミットしていけばいいのかが模索されている。

人間の理性と「バカ」さ

まず、人間には理性があるが、その理性はこれまで想定されていたよりも強いものではない、という前提がある。むしろ理性は感情に影響され、ときに共謀したりもする。チップ・ハースとダン・ハースの『スイッチ!』では、その二つは象と象使いにたとえられていたが、もちろん感情が象であり、理性が象使いだ。象使いは象を制御しているように思えるが、象が暴れはじめたら後は踏まれるだけである。そういうか弱い存在として、まず理性を捉える。

よく言われるのが「バイアス」である。私たちの認知は偏りを持つ。あるいは情報環境に影響されて認知が偏ってしまう。その認知が「理性的な決定」に影響を与えるのだから、それもまた偏ってしまう。さらに、感情という象が刺戟されれれば、その偏りは解消されることなく、ますますひどくなってしまう。『反共感論』『社会はなぜ左と右にわかれるのか』『冤罪と人類』などさまざまな書籍があるが、私たちの感情はひどい偏りを持っていて、それが理性的な判断を阻んでしまう。

ここで重要な点が二つある。一つは、私たちの感情は「身内に肩入れし、そうでないものを迫害する」傾向を持つことだ。前者と後者はコインの裏表なのでそう難しい話ではないだろう。そういう感情が発露している状況で、「政治」の話をしたらどうなるか? むろん公共性なんて概念は一瞬で吹っ飛んでしまう(ネットニュースでよく見かける風景だ)。

二つ目のポイントは、たとえそうした偏りがあっても、私たちは「理性的に判断している」ように感じられることである。おそらくその「感じ」自体は間違っていない。脳の理性を担当するシステム(『ファスト&スロー』で言うところのシステム2)は、たしかに動いているのだろう。しかし、それは娘を人質にとられた裁判官のようなものである。偏った答えを出すことしかできない状態だ。しかし、たとえそうであっても「裁判で判決が出た」ということは一つの事実になる。それが、私たちの判断の「正しさ」(という感覚)を支えてしまう。

本書では、こうした状況を二種類の「バカ」という言葉を用いて説明している。

ここでまず驚いたのだが、著者が何度か「この本のタイトルにイラッときた人がいるかもしれない」と言及しているのだが、このタイトルのどこにイラツキポイントがあるのかが、私にはさっぱりわからなかった。だって、「みんな政治でバカになる」のである。

これがたとえば「政治参加するやつはみんなバカ」というならば、イラッとするのは理解できる。なにくそ、と感じてしまう部分はあるだろう。しかし、「みんな」なのだ。みんなが「バカ」になるというならば、それは差異によって示される「劣等」ではないだろう。単に、政治的な領域では合理的な(あるいは理性的な)判断を下せなくなる、という性質を記述したものでしかない。このどこにイラツキポイントがあるのだろうか。おそらくいらついた人は、本書のタイトルを「政治参加するやつはみんなバカ」と読み替えたのだろう。それこそがまさに人間のバイアスの証左である。そして、その読み替えた認識が「正しい」と感じていたのならば、本書が指摘する問題がありありと理解できるだろう。

さて、話が脱線した。「バカ」の話に戻ろう。

二種類の「バカ」の一種類目は、上記で挙げた「バイアス」である。「認知バイアス」で検索すればいくらでも見つかる私たちの認識の偏りが、脳の性質としてあるわけだ。それは「備わった」ものであって、何かと比べて劣っているかどうか、という話ではない。そういう偏りの中で、私たちは世界を認識し、日々生活している、というだけの話だ。よって、高度な専門家や文化人であっても、こうした「バカ」にいつでもなりうるというのが一つのポイントだ(だから「みんな」なのである)。

もう一種類の「バカ」は、少し込み入っている。本書では「政治的無知」と表現されるそれは、第一に政治の話がひどく込み入っていてその全体像を私たちが捉えきれないという点と、第二に結局私たちが政治に「参加」しても何も変わらないという無力感の二点から構成される。言うまでもなく、この二つは絡み合っている。無力感があるから、政治について知ろうとせず、政治について知ろうとしないから無力感が維持される、という構造だ。

その構造が維持されている限り、適切な知識を得ることはできず、適切な知識がなければ「バカ」な判断を下してしまうのは避けがたい。

よって「政治」についての知識を啓蒙していけばいい、という話になりがちなのだが、しかしそれは「バカ」の後者しか検討していない論点である。実際私たちは前者の「バカ」も有しているので話はそう簡単にはいかない。

それだけではない。私たちが置かれている環境(情報環境)も話をややこしくする。もっと言えば、私たちを「バカ」方向に引っ張ろうとしてくる。ニコラス・G・カーの『ネット・バカ』などが代表的だが、昨今のインターネットは私たちのシステム2ではなく、システム1を惹起する傾向を持つ。なぜか。その方が儲かるからである。

私たちが感情的になればなるほど過激な発言が増え、インプレッションが高まる。私たちが他者に影響を受けやすければ受けやすいほど、消費的にものを買う確率は高まる。そのような傾向が生じるのは、市場主義においては避けがたいことなのかもしれないが、しかし、まさにそれと同じ情報環境で、私たちは政治に関するニュースを読み、話題を投下し、意見を交わしているのだ。正気の沙汰ではない。Twitterは議論向きのツールではない、という話があって、たしかにそれは正しい側面があるのだが、それは文字数の問題以上に、そのような感情で満たされた空間こそが、SNSにおける「正しさ」になっているからであろう。そういうビジネス的な力学が変わらない限り、どれほどツールを改良しても結果は同じだろう。

本書では以上のような話を、さまざまな文献を引きながら、かつ日本のこれまでの言論(たとえば吉本隆明や丸山真男)を参照して構築していく。それ自体が興味深い試みである。特に、吉本隆明のまなざしが「大衆」から「消費者」へと転換した点は、現代の情報環境と相まって、非常に納得深いものがあった。さらに言えば、『シン・モノガタリ・ショウヒ・ロン 歴史・陰謀・労働・疎外』で大塚英志が論じているように、私たちは巨大プラットフォームの中で、「発信者」でありながらも搾取されている構造が生まれている点も、現代では込み入った問題としてあるように思う。

ドヂ

さて、そこまではいいとして、だったらどうすればいいのだろうか。

本書はその道筋を「ドヂ」という言葉で示す。この言葉の由来は本書に直接当たってもらうとして、それが示すのは、「バカの居直りとシニカルな冷笑主義のあいだ」である。この意味自体は説明は不要だろう。たしかにそれは目指されるべき地点であるように思われる。

問題はどうすれば、その「ドヂ」でいられるか、だ。

本書では、ドヂが現れる場所として「書くこと」が例示される。

(前略)書くという行為には「書き手の心理的要因」だけでなく、「書かれつつあることばそのものを律していく統辞法的な力を初めとする、もろもろの力」が働くゆえの「ドヂ」な失敗がある、ということではないか。

この「もろもろの力」に注目してみたい。排他的な感情を生み出す「部族=ノリ」から逸脱するためには、力が必要である。しかし、その力は自分の力=理性からは得られないし、ましてや周り(部族)からはもっと期待できない。それとは異なる力が必要になる。もろもろの力が。

文章を書くことにおいて、たしかに「自分の力」以外のものが文章の生成に大きく貢献している感覚はある。それが「思いも寄らない結論」に自分の思考を導いてくれることは、文章を書くことの醍醐味の一つでもあろう。そして、その力は、日記のように閉じた媒体ではなく、他の人に向けた媒体においてこそ強く発揮される点は注目に値する。

私たちは他者=環境に影響を受けてしまう。よって、異なる力を誘発する他者に触れることが、一つの鍵だろう。当然そのような「不慣れな」場所にいるとき、私たちはさまざまドヂを生んでしまう。まずそのドヂを歓待することにこそ、最初の一歩があるように思う。

もっと言えば、そのようなさまざまな他者に触れることを、私たちは「生活」と呼ぶのではないか。

狭いディスプレイに向き合って、「自分の土俵」で勝負しているとき、その人がどのくらいインテリであってもやはり「バカ」になってしまう。一方で、生活のさまざまな場面ではその土俵を降り、ドヂなことをしでかしかねない他者と遭遇することになる。「もろもろの力」を備えた他者たちと。

つまりは、シンプルな(それでいて難しい)話になる。

生活者として生きること。

それは労働者であり、生産者であり、消費者であり、表現者であり、投票者であり、誰かにとって他者であること。そのような「もろもろの在り方」を統合して生きることだ。

だからもっと「生活」しようではないか。ドジ溢れる生活を。

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