手紙は言葉を届ける。手紙は想いを届ける。
言葉は未来につながる。言葉は過去につながる。
彼女は探し続けた。
受け取った「あいしてる」を、自ら贈るために。
過去の中の亡霊を、そうではないと願い続けた。
そして……。
* * *
島の灯台で、嵐の中にヴァイオレットが下した決断が、彼女が自分自身の足で立ち上がった決意の表れだっただろう。彼女はあのとき、自身の仕事に忠実であった。約束に誠実であろうとした。命令ではない。任務でもない。自らの仕事として。
彼女は上官の存在なしに、この世界と向き合えるようになっていた。その強さを手にできていた。彼女は新しい接面を手にできたのだ。
だからこそ、縁(えにし)を結び直すことができる。より強く。より太く。
* * *
並行して進むもう一つの物語、少年の物語は、とても切なく、そして温かいものだった。熱はすべて、人を想う気持ちの中にある。それを宿した言葉は、熱量の保存装置でもある。
電信が生まれ、電話が生まれ、インターネットが生まれたことで、「手紙を書いて出す」という行為は、日常生活から廃れてしまった。今では、電子メールすらも面倒なものとして排斥されようとしている。
それはきっと便利なことなのだろう。でも、言葉に思いを乗せる、その行為が無駄であったとは思わない。どんなメディアであっても良い、人と人が言葉でやり取りしていれえば、それで目的は達っせていると考えることはできる。しかしそれでも、メディアは力を持つのだ。そして、私たちをマッサージする。
Twitterでリプライを送ることと、その人にメールを送ることは、本当に同じ行為だろうか。そこで行われる、心的な動きは等しいと言えるだろうか。
等しくないとしたら、何が異なるのだろうか。
現代の私たちが持つメディアという接面は、いったい何をもたらしているのだろうか。
その言葉は、誰に向けて放たれているのだろうか。迷いを持って、自分自身の心を探索しながら紡がれているのだろうか。
その言葉は、過去や未来につながっているのだろうか。
手紙。
誰かに向けて綴られる、自らの言葉。
それはたしかに重いがゆえにバズらず、だからこそ降り積もっていくのだと私は感じる。