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『アメリカ紀行』(千葉雅也)

タイトルから「ほほぅ、アメリカ旅行のエッセイ集か」と気楽に手に取ってみたら、嬉しい形で予想を裏切られた。文体が、ところどころ小説なのである。

小説?

私の記憶がたしかなら、『思弁的実在論と現代について』の中で、著者は小説との心理的距離感を表明されていた。だからたぶん今後も小説は書かれないのだろうと無意識に思い込んでいたところに、突然の小説的文体である。そりゃまあ驚く。

とは言え、本書は「小説としても読める」のだが、小説ですよと──いや、物語ですよと紹介するにはためらいがある。それらを構成するために必要と思われる、「出っ張り」がほとんどないのだ。はじまりがあり、おわりがあり、出来事がある。でも、カタルシスを発生させるような物語的構造は(言い換えれば、意味的構造は)ほとんどない。実にフラットなのである。

フラットな物語。

それは一見矛盾するようにも思われるが、あるいはそこに新しい風が吹き込んでくる窓の存在も感じさせる。

というように、私は読んだ本の文体にまず注意が向くのだが、そういう外膜をババナの皮のようにツルっと剥いたら内容自体も本書は非常に面白い。たとえば、こんな一節がある。

性のアメリカ的分類をそのまま適用したり、あるいは細分化したりハイブリッドにしたりするのでは取り逃してしまう性のあり方が、日本や中国などにはあるのではないかという視点。アメリカ的分類を無理に使うことで、日本の当事者がかえって悩みを深くする可能性もあるかもしれない。

いつも「分類」について考えている私にとって──知的生産について考えるということは、分類について考えることとイコールなのである──、これは衝撃的な指摘だった。上記はあくまで「性のアメリカ的分類」についての言及だが、敷衍できる可能性は大いにあるだろう。情報の分類、タスクの分類。そうしたもののフレームワークが、実は欧米的なものの影響を強く受けているのではないか。

ここで、松岡正剛とドミニク・チェンの『謎床』を想起する。二人の対話でおくられる刺激に満ちたこの本の中で、松岡氏はデスクトップ・メタファーの所与性に警鐘を鳴らす。

松岡 ところで、私はMacintoshに出会って、「マルチウィンドウ」という考え方にいたく衝撃を受けて、してやられた感があったわけですが、その後、デスクトップメタファーだけでいいんだろうかと考えるようになりました。なぜ、全員がデスクまわりのメタファーによって情報を処理する、私の言葉で言うと編集せざるをえないのか。もっと他の構造的メタファーをいろいろ使ってもいいんじゃないか、「庭メタファー」とか「能舞台メタファー」とか「料理メタファー」とかがあってもよいのではないかと思うようになったんです。

一体、「デスクトップ」以外のメタファーで構成されたパソコンについて想像したことがあっただろうか。それが全人類(つまり、全文化圏)で共通に機能するメタファーでないとしたら、窓の外を眺めていないことは、何か大きな見逃しの可能性を生じさせているのではないか。

異世界。

異なるルールで記述された世界。

その世界に接することで、私たちは所与のルールについて自覚的にならざるをえなくなる。

変化が生まれるのは、その先の一歩なのであろう。

アメリカ紀行
千葉雅也 [文藝春秋 2019]

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