まるでディストピア小説を読み終えた後のような誤読感。
『一九八四年』で主人公のウィンストンは、最後に「自分に対して勝利を収め」ている。だとすれば、本作の主人公フランソワはどうか。彼もまた何かに勝利したと言えるのだろうか。おそらくは言えるのだろう。そして、その勝利の質は似通ったもののはずである。
人類が手にした「自由」という概念は、もしかしたら人類にとって重すぎるものなのかもしれない。手放しで喜べるようなものではないのかもしれない。いっそ真なる幸福は服従の中にしかないのかもしれない。そのことについて真剣に考え始めると、恐ろしいほどの寒気に襲われる。しかし、吐き気はしない。ウエルベックの冷たい眼差しが、吐き気を差し止めている。そんな肉体的な逃避は許さないぞと言わんばかりに。
『ある島の可能性』でも、一つの世界の終わりが、ひとりの人間の終わりと重ねて語られていたが、本作も近しいイメージはある。中年となるインテリが、はっきりと肉体的な衰えを突きつけられる。それは人生の前半はもう終わってしまったという一つの通告である。しかし、彼には残されている。生きる時間も、金も、名誉も、欲望の残滓である記憶も。それは痛ましく彼を責め上げる。インテリな彼は、安易な快楽で現実逃避することさえできない。そこには設えられたシステムが必要なのである。そこにひざまずき、自分自身を完全に投げ捨てられるだけの強度を備えたシステムが。
彼の肉体の衰えは、フランスひいてはヨーロッパ全土を支えるシステムの衰えに重ねられる。どちらにせよ崩壊は免れない。そこで歯を食いしばって何になる。そうして、システムは一変し、一新される。新しい価値観が輸血の様に注がれ、そして延命は成功する。
本作は、強固に思えるシステムがいとも簡単に変質してしまう怖さ──それを怖いと思うかどうかは読者に任せられているが──を描いているとも言えるが、もっとシンプルにインテリなるものの弱さ、脆さを描いているとも言える。
結局それは転んでしまうのだ。合理性の面からも、(動物的な)人間性の面からでも攻撃はやってくる。もちろん、それは槍を持ったものではない。もしそうであったら、人は勇敢に立ち向かうだろう。問題は、誰も槍など持っていない、ということだ。そこにあるのは金の祝杯か、そうでなければ団扇である。何にせよ、攻撃的な要素はどこにもない。だからこそ、反抗することは難しい。自らが先陣を切って戦いを起こさなければならないし、それはインテリが得意とすることではまったくない。
本書を読んで一番怖く感じるのは、人類が大切にし追い求めてきた価値観というのは、実は行き止まりなのではないか、という感触である。本書を完全に否定できないのなら、その感触もまた否定はできない。末恐ろしい作品である。
ミシェル・ウエルベック 翻訳:大塚桃 [河出書房新社 2017]
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