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『知的生産の技術』(梅棹忠夫)

「知的生産」という言葉と、「知的生産の技術」という概念を世に提出した一冊。

読み方によっては、「情報の教科書」としても位置づけられるかもしれない。私たちと情報の関係、情報の性質、そしていかにして情報を取り扱えば良いのか。そんなことが語られている。平易な文体でありながら、胸の奥にドシンと染みこむ本質があちこちに潜んでる。

情報カードを使った「カード法」や、小さな紙片を使った「こざね法」など、ツールを置き換えれば原題でも使える有用なノウハウも多い。Evernoteを使おうと考えている人ならば一読して間違いない一冊ではあるし、そもそも現代で情報を扱おうとする人間ならば何かしら得られるところがある一冊であろう。


本書には二つの意義がある。一つは、「知的生産の技術」を定義し、その開示をアジテートしたことだ。それはそのまま「知的生産とは何か」の普及にも一役買った。もう一つは、それが今後普遍的になっていくだろうことを、ささやかではあるが示したことだ。つまり、情報化社会とそこに生きる個人の姿を端的に表現している。その文脈は『情報の文明史』でさらに展開されている。


そもそも「知的生産」とはなんだろうか。これは二つの言葉の対比から生まれている。一つは、「物的生産」だ。

いわゆる物作りを行う産業に対して、たとえばコンピュータを使った作業や、こうした文章書き、あるいは当時生まれつつあった放送産業が、情報を生み出していることに梅棹は注目していた。そのような産業は、ときに何も物を作り出さないことがある。だから「物的生産」ではない。だとすれば何か。

そこは、「情報生産」を持ってきたくなる。しかし、梅棹はそうしなかった。そしてそこに「知的生産」という言葉を当てはめた。これは「情報」という言葉を非常に広く捉えていたからだろう。たとえば、夜空に三日月が浮かんでいたとしよう。その満ち欠けの具合によって、満月からどのくらい経っているのか、あるいは新月にどれくらい近いのかがわかる。つまりそこには情報がある。しかし、月は主体的にそのような情報を発しているわけではない。そこにあるのは単なる現象である。その現象を人間が情報として読み取っているだけだ。

梅棹はその単なる現象と、人間が頭を使って作り出す情報を区別した。そして後者に「知的生産」の名前をあてた。

もう一つの対比相手は、「知的消費」である。

[以下工事中]


(仮組み)

本書がスタートとなって、さまざまな「知的生産の技術」系の本が登場した。現代でもその流れは続いている。
[ここにいくつかの本の名前を入れる。自分の本の話もする?]


情報を扱うときの本質をビシッと示したから。そして、それをインパクトのある言葉で表現している。梅棹のファンは、たぶんこの言葉遣いにも惹かれているのだろう。


本書のインパクト。

「知的」という言葉に潜む罠。ハイインテリジェンス、ということではない。そこに勘違いがある。でも、その勘違いが人を惹きつけてきたこともたしか。その言葉を別の言葉で乗り越えるのか、それともきちんと定義し直して使い直すのか。それが現代の課題。

インパクトが強すぎた?

情報が社会に浸透する。知的生産の技術、仕事術、ライフハックの流れ。特にそれと意識されなくなる=技術が遍在する。

特に現代を生きる個人にとっての知的生産の技術。


本書を読んだときの公開の話をする。肉と骨の話。

info

『知的生産の技術』

著者:梅棹忠夫
出版社: 岩波書店 (1969/7/21)

目次:

1 発見の手帳
2 ノートからカードへ
3 カードとそのつかいかた
4 きりぬきと規格化
5 整理と事務
6 読書
7 ペンからタイプライターへ
8 手紙
9 日記と記録
10 原稿
11 文章


知的生産の技術 (岩波新書)
梅棹忠夫[岩波書店 1969]

情報の文明学 (中公文庫)
梅棹忠夫[1994]

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