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ロングテールとリトル・ピープル(4)

インターネットは、ロングテール文化を下支えする。そこでは、「大きな物語」は解体され、それぞれの人が自分なりの物語を楽しめるようになる。

逆に言えば、それは一つの共同体を形成する人々が、まったく異なる物語に基づいて生きていく、ということだ。それはたしかに、一つの自由の在り方なのかもしれないが、そのまま素直に頷けるものなのかは簡単ではない。

「大きな物語」は、__それがビッグブラザーにならない限りは__常に批判の対象となる。その社会にとって致命的に不利益なことは、その物語には盛り込まれない。もちろんそれは、「大きな物語」が常に正しいことを意味するわけではない。単に、そのときの社会情勢にとって、基盤を安定するように作用する、というだけだ。そして、そうでないものを排斥する力がある。

だからこそ、社会の中に強者と弱者が生まれる。これはもちろん社会的問題を引き起こすのだが、しかしその裏側で、その構造が「社会」という建築物を支えている点は見逃してはいけない。それを忘れ、柱が邪魔だからと切り落としてしまえば、上から天井が落ちてくることもありえる。

話が逸れた。

「大きな物語」は、社会全体に流通し、議論にも上がる。それがあまりにも異常なものを含み、社会を短命化させるような動きがあれば、検討を余儀なくされる。もし、その検討を暴力によって押さえ込めば、もちろんその社会は終了する。逆に言えば、継続してきた社会は、「大きな物語」を破綻しないようにそれなりに修正してきた、ということでもあろう。

ロングテール文化に導かれる物語(ここではそれを対比的に「小さな物語」と呼ぼう)は、必然的にニッチとなり、個人か小さな共同体に閉じる。都会のマンションのようなものだ。隣人が誰なのか、何をしている人なのかまったく知らないまま生活を続ける。同じように、「小さな物語」は、共通の土俵に乗ることもなく、個人的にただ消費されていく。他者からの検証が入り込む余地はない。それは、カルト的な思想が育つ格好の場所となるだろう。もちろん、欺瞞的ビジネスの温床でもある。

言うまでもないが、「大きな物語」が成立していた時代でも、カルト的な思想は、キノコのように生えていた。しかしそれは、「大きな物語」へのカウンターカルチャーとして存在していた。その存在自体が、「大きな物語」に依存していたのだ。「大きな物語」が必然的に生む、少数の疎外される人々をそうしたカルトは引き受けていた。逆に言えばカルトから「大きな物語」への回帰も可能性としてはあった。また、数自体もそれほど多くはなく、危険なものはきちんと監視対象になっていただろう(それが十全なものでなかったことは地下鉄サリン事件によって明らかだが、だからといって日本政府を無能だと糾弾することもできない。防がれている事件は可視化されないのだから)。

ロングテール文化は、その構造を大きく変転させる可能性がある。「大きな物語」の存在に依拠しない、あまたの「小さな物語」が社会の中へとばらまかれるのだ。極めて偏った情報と思想で彩られた、極めて偏った物語。そうしたものがごく少数の人々を惹きつけ、絡め取り、物語の中へと閉じこめる。

その「小さな物語」は、物語であるからして、個人の生に意味を与える。しかしその意味は、現実的な社会の在り方とはまったく関係がない。徹頭徹尾空想的で、歪んだ理想主義に満ちている。その物語の中では、個人は個人だけで存続可能な、ある意味での超人である。だから、他者への眼差しや、社会における役割は一切頓着されない。そこにあるのは、単なる個人の生だけなのだ。そこではパブリックという言葉やそれが持つニュアンスは、いっそ美しいほどにそぎ落とされている。無視されているのではない。認識されていないのだ。

このような「小さな物語」が無数に散らばるとき、その社会に住む人々は、共感の情を持つことはない。弱者は邪魔者でしかなく、他者はよくてMobか、自分に益する存在であり、それ以外は無視してもよく、なんなら危害を加えることすら厭わない。自分の体の周りを飛び交う蚊を払い落とすことに躊躇する人間がどれだけいるだろうか。「小さな物語」に閉じ込められた人間にとって、他者とは__それはつまり物語を共有していない人々ということだ__蚊と同じなのである。

しかし、そのような人々が悪意に満ちていると考えてはいけない。むしろそれが悪意に満ちた行動であれば、どれほど良かっただろうか。そうした人々は、ごく当たり前に生きているだけなのだ。だからこそ、この状況は厄介である。「悪意」ならば正せる。しかし「当たり前」は是正しようがない。

少し先走り気味に書くと、ロングテール文化においては、「小さな物語」の是非を判定しうるものがないのだ。「大きな物語」が機能しているのであれば、それに対して正しい、間違っているを問うことはできる。しかし、それが解体された後の世界は、すべては相対化されている。ある「小さな物語」と別の「小さな物語」が存在するのみだ。ウェブでよく見かける、「お前がそう思うんならそうなんだろう。お前ん中ではな」がそこら中に広がっている世界なのである。基本的に、そこでは抜本的な議論はなく、あるのはただ言葉のすれ違いだけだ。そして人々は自分の世界(物語)で満ち足りて、意図せずとも他者を蹂躙し続けていく。

「理想的な社会」というシステムが、個人の生活を疎外していくSF型のディストピアとはまた違ったディストピアがそこには広がっている。

(つづく)

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