のきばトーク第15回を収録しました。
今回の話題のきっかけは、『脳は、なぜあなたをだますのか』という本を書店で見かけたときに生じた違和感です。
仮にこのタイトルが、『脳は、なぜ「あなた」をだますのか』であれば、それほど違和感はなかったでしょう。現に、エリエザー・スタンバーグの『〈わたし〉は脳に操られているのか』では、見事にかっこに入っています。これならば構わないのです。
かっこなしの表現では、私という主体(あるいは自意識)が絶対的なものとして想定されています。わたしはわたし。それ以外の何ものでもない。それに対し、「あなた」や「わたし」をかっこに入れると、その絶対性が崩れます。わたしが「わたし」だと感じているもの。そのような入り組んだ状況になるわけです。
そして、心理学や脳神経学、あるいは行動経済学の本をいくつも読んでいると、やはり「わたし」は絶対的なものではないな、ということに気づかされます。
そもそもとして、「わたし」という感覚は、どこからどう考えても脳から発生しています。右手を切り取っても「わたし」という感覚は残るでしょうが、脳の視床ー皮質部分がごりっと削り取られたら、「わたし」という感覚は消失するでしょう。このあたりのお話は、『意識はいつ生まれるのか』で面白く紹介されているので、ご興味あればご一読ください。
ジュリオ・トノーニ, マルチェッロ・マッスィミーニ [亜紀書房 2105]
驚くほど「わたし」という感覚は、主体的であり自律的であり、自明なものではありますが、それは脳の存在が、そしてそれがきちんと機能していることが前提となっています。よって、脳から発生した「わたし」(あるいは「あなた」)が、脳によって騙されるというのはちょっとよくわからないわけです。どちらも同じものなのですから。
とは言え、それを踏まえた上で、もう一度『脳は、なぜあなたをだますのか』というタイトルを見てみると、おそらくこういう書き方の方が実感に即する人が多いのだろう、という予測も立ちます。だって、わたしはわたしじゃないの。ほかに何があるというの、というわけです。そういう人であれば、かっこがついている方が違和感が出てくるでしょう。
その意味で、タイトルの付け方としては正解なのかもしれないな、とは感じます。
「わたし」は車のドライバーか
「わたし」という感覚は、異常なほど強い連続性を持っていますが__たぶんそれは記憶によるものでしょう__、考えてみれば、その感覚はだいたい一日に一度消失を体験します。ようは「寝る」わけです。でも、「わたし」は寝る前の「わたし」と同じ存在であるように感じます。これは当たり前ですが、なぜこれが当たり前なのかを考えると、なかなか面白い話になってきます。
別の視点から考えましょう。ダイエットを決意する「わたし」と、ケーキによだれを流す「わたし」。この二つは同じ主体であるはずなのに、その利害が一致していません。たったこれだけのことでも、「わたし」をかっこに入れる理由が出てきます。おそらく、ケーキを我慢しているときの「わたし」にとって、ケーキを美味しそうにみせる脳は、敵対する存在なのでしょう。少なくとも、そう考えておけば難しい話からはすべて遠ざかれます。外的な敵というのはかくも便利な存在なのです。
このようにひとりの「わたし」の中にも、さまざまな「わたし」が存在する点もあるのですが、それ以上に「わたし」の力不足問題もあります。
一般的に、「わたし」というのは、肉体の管理者であり、それはあたかも車のドライバーであるかのような感覚を受けますが(セルフマネジメントについて言及する人ほど、こういう感覚で言葉を使います)、実際その見通しは大きく間違っています。「わたし」という主体的な意志決定者は、実はたいした影響を持っていません。なにせ呼吸も心臓の鼓動も管理できないのですから。それにキーボードを叩いたり、階段を上るのも、「わたし」の仕事ではないでしょう。
「わたし」の日常の行動の大半は、おそらく8か9割以上は、「わたし」でないわたし、つまり無意識が担当しています。その意味で主体的な意志決定者(であるかのように思える)「わたし」の領分は非常に小さいのです。人によっては「まったくない」と断言することもあります(意識は傍観者である)。それは熱気球に乗ったコビトのようなものでしょう。管理できない風と、管理しにくい熱によって運ばれる存在。これは、車のドライバーとはまったく違っています。
このような物の見方は非常に残念なものです。自らの存在を、神が自身の姿を似せて作ったものだ思っていたのに、実はサルが進化したものだと聴かされたような残念さがあるかもしれません。
でも、やはり実際はそうなのです。無意識の影響は大きく、私たちは置かれた環境とそこからやってきた刺激に強い影響を受けます。「わたし」は無力か、あるいは微力なのです(この二つには大きな違いがあるわけですが、自由意志の存在についてはまた別のところで考えましょう)。
一度そうした「わたし」の無力さ(あるいは微力さ)を受け入れると、パラダイムが大きくシフトします。「わたし」を多様性を持って受け入れることができ、さらに「わたし」の変化も許容できるようになります。
逆にそれができないと、困った問題が生じます。簡単に言えば、「わたし」の誤謬を受け入れられないのです。
絶対的中心である「わたし」は、常に正しい存在です。何の検証も入り込む余地はありません。「わたしがそう思ったら、それは正しい」ということになるのです。それがどのくらい強い力を持っているのかは、「私は、愚かで間違った存在だ」と強く感じている人が多いことからもイメージできるでしょう。これほどまでに矛盾した考えはありません。しかし、「私は、愚かで間違った存在だ」(と感じているこの感覚は何の批判もなく正しい)とかっこで補えば、無理なくそれが成立します。そして、そういう心の動きがそこにはあるわけです。
だから、「理想の私」は、すぐさま「そうなるべき私」となり、なんなら「本当の私」に一瞬で変化します。この3つはまったく違うものであるはずです。しかし「わたし」が絶対的な存在であり、その誤謬など想定もしえないという状況なら、この進化は誰にも止められません。
そのようにして、人は、みずからが生み出したもので、みずからを苦しめることになるのです。たぶん、神話を探せば似たようなモチーフが見つかることでしょう。人が、概念や言葉や社会を成立させてから、ずっとずっと繰り返してきたことなのだと想像します。そこでは、自分以外の絶対的存在者(たとえば神)による、スーパーエゴの解体(「わたし」からの絶対性の剥奪)が必要とされるのでしょう。
それが一切なくなってしまうと、人の心は「じぶん」に蝕まれていくのかもしれません。