「超」整理術ではない。アンチ整理術だ。つまり、「整理しない整理法」ではなく「そもそも整理って必要なの?」とわりと根源的な問いを投げかけてくる実に森先生らしい一冊である。なにせ森先生の作業場は散らかっているらしいから、説得力(?)は抜群だ。
その森先生も、整理の効用自体は認めている。たとえば気分がすっきりするだとか、そんな話だ。しかし、整理を完璧にしたからといって、それで仕事の成果が向上するかというと、もちろんそんな保証はない。つまり、冷静に考えてみたときに、整理という行為の費用対効果に疑問が生じる、という話である。
ただし、それだけなら「やってもやらなくてもいいですよ」で済むのだが、もう一歩話を進めると急に雲行きが怪しくなってくる。つまり、「創造」という目的を見据えたとき、整理された状況というものがどれだけ貢献するのか、という点だ。アイデアは混沌から生まれるのだとしたら、整理された(整理されすぎた)状態というのは芳しくないかもしれない。
これについて明確な答えは出ないだろう。おそらく整理してない天才の事例も、整理されている天才の事例も好みに応じてひっぱりだせるはずである。その論証に確からしさは宿りにくい。だから、結局は自分のやりたいようにやるのが一番、ということになる。整理したいなら整理するし、整理したくないなら(あるいはやろうと思ってもできないなら)やらない。ごく当たり前の話に聞こえるが、「整理しなければならないから、整理する」という考え方から脱却できているかどうかが、ここでは肝心である。
私は、書籍についてはこれまでずっと「絶対に処分しない派」だった。おかげで本棚は意図せず混沌状態を生み出していた。その混沌状態が、ある部分ではクリエーションに作用していた部分はあるだろう。しかし、──とても全面的にとは言えないが──、いくらかは書籍を処分し、本棚の中身を入れ換えたら、それはそれで新しい刺激がやってきた点は見逃せない。完全な整理でもなく、完全な混沌でもなく、ある程度の混乱という状況なら塩梅はよいのかもしれない。それなら、整理のための手間もさほどはかからない。
森先生は読んだ本は処分するそうなので、私と同じ悩みはないだろう。ただし、作りかけの工作が山ほどあるという話だ。これは、片づいていない本棚が対応するのではなく、大量の仕掛かり仕事が対応する。つまり、森先生の発言に沿えば、書きかけの中途半端な原稿やアイデアを「散らかしておき」、気が向いたらそれにどんどん手をつけていくのが良い、ということになる。
この指針は、『ワインバーグの文章読本』が提示する方法論と極めて近い。ワインバーグは、以下のように述べる。
この原稿を含めて、30冊以上の本が完成・未完成のさまざまな段階にある。月刊誌のコラムの未完成原稿が36件、その他の出版物の原稿や出版の予定が決まっていない原稿が27件ある。さらに、具体的な形にならずに頭の中にある断片は膨大な量にのぼる。それらはいつか使いかもしれない。はたまた使わないかもしれない。
この状況は、どう頑張っても「整理できている」とは言えないだろう(数を把握してるのは、この文章を書くために調べたからだろう)。ほとんどジャグリングに近い何かだ。さらにワインバーグは、自身が提唱する自然石構築法の本質をこう示す。
むしろ自然石構築法の本質は、執筆プロジェクトを進めるために常に何かをしていることにある。自然石構築法作家にとって、常にやるべきことはいろいろとある。大小さまざまな作業をいくつも抱えていて、それらを自分の気分、開始時間と終了時間、資料、全体的な飽き時間に応じてこなすための知識が必要だ。
まったくもって森先生の「工作場」と同じである。
結局のところ、人の頭というのは「思ったよう」には動かない。だから、動くにまかせて動かすのが効率が良い、ということなのだろう。つまり、オブジェクトベースで整理するのではなく、自分の脳をベースにしてそれに対応する形でオブジェクトを引っ張ってくる。それもまた「整理」の一つのスタイルなのかもしれない。
とは言え、話を創作行為に引き寄せすぎた。本書は、「整理とは何か」という疑問を掘り下げていく本でもあり、「何のために整理を行うのか」を問いかける本でもある。そして、その答えは自分でしか出すことができない。結局のところその答えは、自分が何を欲し、何を達成したいのかというある種の欲求と関わっているからだ。
総合して言えば、何を・なぜ整理すべきかを、自分の頭を使って(ここが大切だ)、整理することを勧める本である。