「才能」という言葉は、弄ばれている。
人々の幻想を吸収し、心の痛みを防ぐ役割を担わされている。しかし、その実体はかなりあやふやなのだ。そこに切り込んだ本がいくつかある。
口火を切ったのはマルコム・グラッドウェルだったと言っていいだろう。『天才! 成功する人々の法則』は日本でも大ヒットし、提唱されている「一万時間の法則」は、かなり有名になった。とびきりの成果を挙げる人は、とびきりの練習量をこなしている。簡単に言えば、そういう法則だ。
グラッドウェルの筆致は流れるようにスムーズなので、ついつい「なるほど、練習量が大切なんだ」と納得してしまう。でも、それはあまりに単純すぎるよという視点を示したのが、『究極の鍛錬』と『超一流になるのは才能か努力か?』である。
ジョフ・コルヴァンの『究極の鍛錬』(原題 『Talent is overrated』)は、グラッドウェルの原著『Outliers』と同じ年(2008年)に発売されている。しかし、さほど有名にはならなかった。日本での知名度はかなり低いだろう。しかし、「才能」への過剰なる信奉を棄却し、その代わりに徹底的に現実的なトレーニングを紹介した本としては、非常に優れた一冊である。
練習量はたしかに重要だ。しかし、質はどうなのか。どんな練習でも1万時間続ければ卓越した人になれるのか。ジョフ・コルヴァンはそれにNoとつげる。非常な負荷のかかるトレーニング、本書の言葉を借りれば「究極の鍛錬」を積み重ねることが卓越への道なのだ。
考えてみれば、これは当たり前のことだろう。多くの人は日本語を話すことを1万時間近く続けているだろう。それで落語家のように達者にしゃべれるようになるかと言えばNoだ。毎日のように仕事でパソコンを使っている人が、敏腕プログラマー並みのタイピング速度を手にできるかと言えば、これもまたNoだ。
技能の向上には、時間を大量に投資することが欠かせない。しかし、質的に意味のあるトレーニングを行うことも必要なのである。
同じことは、アンダース・エリクソンとロバート・プールによる『超一流になるのは才能か努力か?』でも提示されている。それはそうだろう。エリクソンは、グラッドウェルが『天才!』の中で紹介している、超一流のピアニストとそれ以外を分ける要因は何かを研究した学者なのだ。言い換えれば、グラッドウェルは、エリクソンの研究を土台にして『天才!』を著している。
アンダース・エリクソン, ロバート・プール [文藝春秋 2016]
だから、そう。エリクソンは、グラッドウェルのことを愛憎半ばに見つめているに違いない。グラッドウェルの功績は、一般的に信じられている「才能」という幻想を打ち砕いたことだ。それは天賦のもので、それさえあれば圧倒的成果が確約されるという遺伝的な形質。
「あの素晴らしい人はなぜ成功したの?」
「彼が天才だからさ」
努力したくない人にとってこれほど素晴らしい言い訳は存在しない。少年向け微エロ料理漫画『食戟のソーマ』でも、似たような話が出てくる。料理エリート校「遠月学園」の生徒たちが、主人公ゆきひらのことを認めないのは、彼を認めてしまうと自分が努力していないことを同時に認めてしまうことになるからだ、と。
「才能」という言葉さえ機能していれば、自分がうまくいかない原因をすべてその言葉に押しつけられる。「自分には、才能がなかったんだ」、と。これはこれで心の防衛機構として優れているだろう。そうしたものがまったくなければ人の心は簡単に壊れてしまうに違いない。
しかしながら、この認識はときに危うい。卓越した能力を得るためには長期間・高負荷のトレーニングが欠かせない。そして、人は日常生活においてそのようなトレーニングをほとんどしていない。だから、ふつうの人は何の「才能」もないことになってしまう。
あるいはこれからまさにトレーニングを始めようとしている人に「あなたは才能がないから止めておきなさい」とアドバイスしたり、それと同じ言葉を自分に向けたりもする。これでは最初の一歩は永遠に踏み出されない。
もちろん人によって遺伝的要因による能力の差はあるだろう。しかしそれは、徹底的なトレーニングで向上する能力の幅からすればごく小さいものだ。圧倒的な成果を求められる場では、欠かさぬトレーニングこそが重要なのである。
とは言え、子どものころほんの少しでも得意なことがあるならば、それをやることで周りの人間に褒められ、さらにそれに熱中し、それについて自分の能力が伸びていくことそのものが好きになって、どんどんはまりこんでいく、という流れはあるだろう。その意味で、スタート地点の有利さはある。が、それは覆せないものではない。
それよりも重要なのは、そこでどのようなトレーニングを積むのか、という点だ。どれほど熱意があっても、効果の低いトレーニングに明け暮れていれば能力のさらなる向上は望めない。また、ある行為が好きでも、負荷が高いトレーニングをしてまでその能力を高めたいと思えないのであれば、同じように能力はそこで止まってしまう。
つまり、精神論ではないが、「自らの能力を、代価を支払っても向上させたい」と望んでいるかどうかが一つの肝なのだ。
グラッドウェルの功罪の半分はここにある。彼自身がそう書いているわけではないが、「一万時間の法則」には、どことなく「とにかく一万時間続ければ、才能が開花する」というニュアンスが感じられる。彼がそれを匂わせたのか、単にこっちが感じ取っているだけなのかはわからない。ただ、日本人はそういう「おとぎ話」が結構好きなので、より積極的に解釈されている状況はあるだろう。
単に同じことをやり続ければそれで才能が開花することはまずない。脳の特性からいって、ある程度慣れたらそれ以降はほぼ無意識でそれらの行為が繰り返されるだけだろう。どうしてそれで能力が向上することがありえるだろうか。重要なのは、常に一定の負荷をかけ続けることだ。自分の能力が10であるならば、12や15の負荷をかけること。そしてそれができるようになったら、次は14や20の負荷をかけること。それを、再現なく繰り返し続けていくこと。ぼんやりとした反復はおよびではない。
ブログで考えてみればいい。
ここに10年以上記事を書き続けたブロガーがいる。彼は毎日毎日文章を書いている。仮にそれが12年間で、一日平均2.5時間執筆にあてていたとしよう。見事に1万時間を越えている。さて、彼の文章は卓越し、超一流になっているか。非常に残念ながら、なってはいない。アルファブロガーでもないし、ベストセラー作家でもない。単に、文章を書き慣れただけのブロガーである(言うまでもないが、私のことだ)。
非常に簡潔で、残念な結論となる。
卓越した技能を手にしたいのならば、人生を賭ける必要がある。それも、チップを大枚つぎ込まなければならない。挙げ句の果てに、その修練の道は非常に険しい。何かを「こなして」いたらダメなのだ。無意識で楽にできるようになった時点で、次なる負荷を求めないと能力の継続的な向上は望めない。なぜなら脳は、状況に適応しようとするからだ。ある状況に適応し、それが楽にできるようになる。そうなったら脳は「やれやれ、一段落だ」と一息つく。そこに次なる鞭を打つ意志がなければ、卓越にはたどり着けない。
「いや、そんなのマジ無理っす」
と思ったに違いない。私も同感だ。だからこそ、卓越者は唯一者であり、それが仕事にもなる。真似できる人がいないからだ。
世の中には、「やりたいこと」か「できること」かのどちらを仕事にすればいいのか、という悩みがあると聞く。もちろんどちらでもいいのだが、「やりたいこと」は、実際は「自らの能力を、代価を支払っても向上させたい領域」のことなのだろうと思う。そうでないと、(一流の)プロとしてはやっていけないはずだ。