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『矛盾社会序説』(御田寺圭)

本書から、どこか一文を抜き出すとすれば、次の箇所になるだろう。

「より自由に他者を選べるようになった社会」を換言すれば「より自由に他者を拒否できるようになった社会」ともいえる。

よく考えてみれば自明のことである。誰かに選択を強要されないのが自由であるならば、私は嫌なものを、嫌な他者を選ぶ必要がなくなる。

これは一見素晴らしいことにように思えるし、万人に開かれた幸福の扉であるかとも感じられるが、はたしてそうだろうか。人類が皆均質であるならば、おそらくはそうだろう。しかし、実際は違う。

「より自由に他者を選べるようになった社会」では、他人から選ばれる才覚を有するものはよりたくさんの人から求められるようになり、そのような才覚を持たないものは誰からも選ばれなくなる。

それの一体どこが悪いのだ? とあなたは思われたかもしれない。自由恋愛では当たり前のことだし、就職活動や企業経営だって同じようなものである。より強きものが、より多くを得る。何もおかしなところはない。

そういう弱肉強食観を語って、めでたしめでたしと幕を下ろせればいいのだが、そううまくはいかない。自由が高らかと謳われる一方で、「人間ひとりひとりには価値があります」という言説が堂々と闊歩しているのである。これはいったいどういうことであろうか。

ある人には価値があるはずなのだ。でも、その人は誰からも選ばれない。それは「あなたは無価値である」という通告と一体何が違うのだろうか。いやむしろ、「人間には価値があるんだ」と口ではいいながらも、誰もその人の手を取ろうとしない欺瞞こそが、一番手ひどいダメージを発生させるのではないか。「価値はある、でもその価値を証明するのは、私ではない」。そうした声の唱和がどのような歪さを、あるいは生きづらさを生んでしまうのか。

ここで起きていることは、一体何なのだろうか。

たとえば、「自由は、公平ではないのである」、という言説を提出してみても、「いや、誰でもチャンスがあるんだから、公平だ」という反論は返ってくるだろう。しかし、自らの容姿は自分では選べないし、性格や趣味も難しいところである。そうしたもので選別が行われるとき、その結果を「自己責任」と切り捨ててしまうことの裏側には、──そうした行為の是非は別にして──、無関心の列車が走っていることだろう。

つまり、そのルールで勝てる人間からすれば、「これはこういうルールなんだから、仕方ないっしょ」という御題目さえあれば、自分の視野に入らない他者がどのような生きづらさを抱えていても、知らんぷりできるのである。「だって、それが自由ってことでしょ」と一言言いさえすれば、万事解決、レインボーブリッジは封鎖完了である。

この社会が抱える矛盾をどのように解きほぐしていけばいいのかは、私にはまったくわからない。ただ一つ言えるのは、「自由」は万病に効く特効薬ではない、ということである。ときにそれは、劇的なまでに格差を拡大させ、その結果に太鼓判を押してしまう。

私たちは、一人ひとり大切な人間であり、限りある人生を生きている。だったらほら、嫌な奴とかどうでもいい人間に関わっている暇なんてないだろう。そんな奴らはバッサリ切り捨てて、大切なあなたの人生を生きなくては────その声が、どんな結果を引き起こすのか、どんな結果を善だとしているのか。あらためて考えてみた方がいいだろう。

矛盾社会序説
御田寺圭 [イースト・プレス 2018]

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