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『アマルティア・セン講義 経済学と倫理学』(アマルティア・セン)

『経済学の再生―道徳哲学への回帰』の文庫版。経済学と倫理(道徳)をいかに接続するか。難しい問題だ。

古典的な経済学では、「人間は自己利益最大化のために行動する」とされている。非常に単純化された人間の行動モデルである。そして、そのような各々の行動の結果、市場は綺麗にバランスされるとされている。神の見えざる手。

たしかに、現実の現象を眺めれば、各々は自己利益を追求しているし、それで市場がうまく成立している。しかし、その見方は本当に正しいのだろうか。人間には、自己利益最大化のための行動原理以外の原理があり、それも市場のバランスに貢献している可能性はないのだろうか。そして、その兆候を古典的な経済学は読み取ることができるだろうか。

本書で著者は、合理的行動と自己利益の最大化が必ずしも一致しないことや、個人にとって効用とは何を含意しているのかを一つひとつ確認していきながら、これまでの経済学の枠組みの狭さについて問題を提起していく。

そもそも自己利益の最大化とは何を意味するのか。100円を支払うとき、それに見合うあるいはそれ以上の物品を求めることだ。これはわかりやすい。では、私が募金箱に100円入れるとき、私は自己利益の最大化を求めているのだろうか。そうだ、と言うこともできるだろう。私にとってその行為は十分に心理的満足感を得るものなのだ、と。しかし、一度こういう見方に立ってしまえば、「自己利益の最大化」という言葉の意味がなくなってしまう。なんであれその人の取った行動は、自己利益の最大化に叶うものだ、という話になり、そこにはどんなものでも突っ込めるし、またそこから予測のようなものを立てることもできなくなる。

私たちは多くの部分で自己利益を追求し、それによって市場が適切化こともたしかである。しかし、人の行動理由はそんなに単純に還元できるものでもないだろう。本来はもっと多義的であり、量子的な振る舞いを見せるものだ。その観点を欠いた経済学のモデルは、シンプルで使いやすくはあるのかもしれないが、現実のいくつかの部分を読み違えることになる。そして、それを読み違えているからこそ、現代には貧困やら格差がまだ残っているのではないだろうか。本当に市場がうまくするならば、地球全体で最適化が起こるはずではないか。しかし、そうはなっていない。そして、どうすればそれが達成できるかの見込みも立っていない。

人に選択の自由を与えれば、あとは神の見えざる手が何とかしてくれる、というのが妄言であることはサブプライムローンに代表される金融危機やバブルショックによってはっきり明示されている。自由はすばらしい理念ではあるが、すばらしい果実を私たちに手渡してくれるとは限らない。なにせ行動経済学が示すように私たちの脳には不合理な機能もある。そして、自由市場ではその不合理さを狙って「カモ釣り」するやつらが出てくるのだ。それが「豊かな生」を阻害する可能性は常に念頭に置いておく必要があるだろう。

さらに言えば、合理性の追求がその人の人生を「豊かに」するのかも不明瞭である。『クリスマス・キャロル』のスクルージが、晩年に痛烈に後悔したように、合理性の追求は、生に関する一部分の「豊かさ」しかもたらさない。むしろトレードオフとして、別の豊かさを奪っていくことすらある。そんな観点を、古典的な経済学はまったく持っていない。自由を与えれば、人は幸せになる。いくらなんでも、それは単純すぎるだろう。

ざっとみたときに、人をエージェントと見るモデルはだいたいはうまく働く。それは、ニュートンの物理学が、日常のだいたいの領域ではうまく働いてくれるのと同じだ。しかし、非常に細かい領域となるとそうはいかなくなる。でもって、経済学においてそれは、「個人の生」ということになるだろう。その領域では、別の考え方・アプローチが必要になるのだ。無論それは、道徳や倫理という分野の仕事なわけだが、著者はその両者を統一するような新しい経済学の登場こそが必要なのであると説く。

おそらくそれはそうなのであろう。そして、その道を進むためには、私たちはもっと人間について知る必要がありそうだ。

アマルティア・セン講義 経済学と倫理学 (ちくま学芸文庫)
アマルティア・セン 翻訳:徳永澄憲, 松本保美, 青山治城 [筑摩書房 2016]

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