Lifehacking Newsletter 2016 #20より
それというのも、知的な興奮は、好奇心のスパークは、一人ではほぼ不可能だからです。
人が感じる興奮にもいくつかの種類がある。当然、知的興奮と呼ばれるようなものも同じだ。
圧倒的な知性、いっそ非人間的ですらある知性に触れるとき、私たちは厳かな興奮をその身に宿す。彼の高さに陶酔し、結果、己の愚かさを忘却できる。もちろん、わずかな間に過ぎないが。
それとは違った知的興奮もある。
対話による興奮だ。
我と彼が同じテーブルに着く。それは等しい可能性を象徴するテーブルだ。我は彼によってかわりうることを、彼は我によってかわりうることを、そしてそのために己が全力を出すことを、言葉と情の限りを尽くすことを象徴するテーブルだ。
「貢献」などという生易しい言葉ではまったく足りない。それはいっそ格闘的である。それはいっそ闘争的である。しかし、敵対的ではないし、支配的でもない。
そのような場所に自らを置くとき、人は自然と境界線に立たされる。自らの安全圏を抜け、見知らぬ森に足を踏み入れることになる。でなければ、他者とは出会えないからだ。
対話とは、自分の城下町に客人を招き入れることではない。自らが、その足で「未知」の領域めがけて歩き出すことなのだ。そこには当然恐れがある。冒険にはつきものの感情だ。そして冒険があるからこそ、貿易が生まれる。貿易によって、世界の血液は循環を始める。
自分の考えを提出するのは怖いし、相手の考えに影響を受けるのも怖い。
だから、そう、知っていることだけに触れていれば安心できる。「うん、そうだよ」と肯定してくれるものだけに触れていれば、自我がほころびることも、自尊心に傷がつくこともない。皆が等しくニコニコしていられる社会が、そこにはあるのかもしれない。
しかし、その社会には何かが決定的に欠落している。
対話とは、冒険である。