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ゼロフィル現象とセルフイメージ

小説家:川原礫は、これを「ゼロフィル現象」として『アクセル・ワールド』シリーズで表現している。強い自責の念にかられたプレイヤーは、そのアバター(作品中に登場するゲームのキャラクター)をまったく動かせなくなる。プログラミングはデータを二進法で扱うが、それがすべて0で満ちてしまい、意味ある信号が送られなくなる、という意味なのだろう。

『アクセル・ワールド』シリーズでは、脳とリンクするニューロリンカーを通じて行われるゲームが中心である以上、この「ゼロフィル現象」がセルフイメージの自傷であり、それと同じことが現実での「生きる」にも起こることが示唆されているのは想像に難くない。


本作は、アクション系のライトノベルではあるが、全体を通じて語られるのは「シンイ」の力である。

心(意識)の力は強い。

片方に現実があり、もう片方に生命体としての肉体がある。心はそれらをつなぐパイプラインだ。それが損傷し、たとえば偏ったフィルターを備えてしまえば、世界から流れてくるどのような信号も、あるいは肉体から発せされるどのような信号も、すべてが0で満ちてしまうことがある。

私という存在は、「自分」という意識で成立しているわけではない。「自分」がなくなっても、肉体は存在しうる。しかし、「自分」を形作り、場所を与え、意味づけするのはセルフイメージである。CPUやHDDが正常でも、OSが壊れてしまえば、私たちは容易にそのデータを扱えなくなるが、それと似たようなものだ。「自分」というのは私のOSなのである。


同じ川原礫の『ソードアート・オンライン』シリーズでは、同じ状況がさらに踏み込んで表現されている。主人公たるキリトは、魂とリンクするゲームの中で、自分を傷つけてしまった。己の無力感に苛まれ、後悔の闇に塗りつぶされてしまった。

現在進行中の巻では、そこからの回復方法が模索されている。登場人物たちが立てた仮説が、その通りに機能するのかはわからないが、おそらくそうであろうという描写はある。

「自分」は、セルフイメージであり、それを構成するのは体験であり記憶だ。しかし、「自分」は自分だけで成り立つものではない。それは単なる独りよがりな思い込みだ。私は私の中にもいるし、他の人の中にもいる。その総体が私である。言い換えれば、私は多層なのだ。

『アクセル・ワールド』シリーズでは、仲間を思う強い気持ちによってゼロフィル現象からの脱却が示されているが、『ソードアート・オンライン』シリーズでは、仲間から思われている気持ちのフィードバックという形で、キリトはおそらく回復するのだろう。もう今から感動しそうな勢いだ。おそるべし川原礫。

アクセル・ワールド〈1〉黒雪姫の帰還 (電撃文庫)
川原礫 [アスキーメディアワークス 2009]

ソードアート・オンライン〈1〉アインクラッド (電撃文庫)
川原礫 [アスキーメディアワークス 2009]

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