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『未来は予測するものではなく創造するものである』(樋口恭介)

副題は「考える自由を取り戻すためのSF思考」。SFとビジネスのかけ算が主要なテーマである。副題にあるSF思考、および副題にないSFプロトタイピングが解説されている。目次は以下の通り。

パート1 〈SF思考〉とは何か?
1.物語の力
2.オルタナティブを思考/志向する〈SF思考〉
3.世界におけるSFとビジネスの関係

パート2 〈SFプロトタイピング〉をはじめる
1.自由な思考・議論のためのマインドセット
2.SFプロトタイピングのプロジェクト進行
3.物語のアプローチを考える
4.物語を生み出すコツ

パート3 〈SFプロトタイピング〉のケーススタディ
ケース1.未来の服を考える「母を着る」
ケース2.未来の都市を考える「ペーンポーイ文明における都市型演算機構の活用事例(『ペーンポーイ民俗史研究』第二七号 掲載)」
ケース3.COVID-19以降の社会を考える「踊ってばかりの国」

まずパート1でSF思考が、次いでパート2でSFプロトタイピングが扱われる。位置づけでいえば、パート1がそもそもなぜSFというものがビジネスの現場において必要なのかの理解を準備し、パート2ではそうしたSF的な思考をビジネスに用いるSFプロトタイピングの実践法が導入される。

こうした骨子だけをみれば、いかにもよくあるビジネス書なのだが読んでいると少し異なる感触を覚える。たとえばそれは、ビジネス書でよく祭り上げられるロジカルシンキングを否定しているから、ではない。むしろ本書はその意義をきちんと認めている。『イシューからはじめよ』というゴリゴリのロジカル的な問題解決の手法は、著者にとってもバイブル的な存在であったと述べられているし、その著者である安宅氏をコンサルタントとして尊敬しているとも書いてある。しかし、両論併記的な「どっちも大切ですよね」という雰囲気のようでいて、どうにも拭えない印象が残る。

それは何度も登場する「新人コンサルタントは」という限定表現が醸し出すものだ。新人コンサルタントは忙しいのでロジカルに効率よく進めるしかない。そうでないと作業が多すぎて残業ばかりになってしまう。しかし、もっと(工程として)上流に関わるならば、そのようなイシュードリブンでは十分とは言えないのではないか。

そのような問題提起は、一面では段階的に能力を磨く必要があることを示しているが、もう一面ではそもそもビジネスの現場がひどく誤った状態に置かれていることも暗示している。たとえ新人であっても、可能であればイノベーティブな提案をしたいのではないか。しかし、それができない。忙しすぎるのだ。

このことは著者の生業の一つであるコンサルタント業の話として読めるが、もちろんビジネスの現場全般に敷衍できる話であろう。もし、ある現場が忙しすぎるなら、そこではロジカルシンキング的に「効率よく」処理されなければならず、イノベーションの実現などまず不可能である。そして、日本のビジネスの現場は忙し過ぎる。演算される結果はどうなるだろうか。つまり、「新人コンサルタントが忙し過ぎる」という状況そのものが──つまり彼らがロジカルシンキングを用いなければいけない状況こそが──問題含みだというわけだ。そんな状況では、イノベーションなど夢のまた夢である。

ではこれはイノベーションだけの問題なのだろうか。逆に言えば、イノベーションを放棄してもビジネスとして成立する場であれば、一切合切無視できる話なのだろうか。私はそうは思わない。

本書は「ビジネス」について語っているが、ビジネスだけを語っているわけではない。大切なのは著者が言う「未来」の含意である。

それは単に、今よりも時計の針が進んでいる時間を意味してはいない。そうではなく、「今」の延長線上にありながらも、それとは異なる様相を見せる世界こそが、本書における「未来」である。今日とまったく変わらない明日は、「未来」ではない。それは繰り返される今日である。まるでアルゴリズムによって生成される、ループ的なオブジェクト。それは一種の諦めであり、言い換えれば想像力の死である。未来とはその逆だ。

今ここにある「あたり前」をあたり前として受け入れずに、違う世界の有り様があるのだと望むこと。望めること。それが想像力であり、希望である。そうして描かれるビジョンこそが、本書が言う「未来」だ。SF思考はその未来に関与している。だからこれはビジネスの話だけではない。人が生きる、という極めて根本的な事象平面に属する話なのだ。

もう一度副題を確認しよう。

「考える自由を取り戻すためのSF思考」

「考える自由」が取り戻す対象であるならば、今の私たちはそれを奪われていることになる。そして、それが奪われているならば、「未来」は存在せず、代わり映えのない「今日」が──想像の中で──続くことになる。未来は死んでいる。想像力を引き連れて。

もちろん、そんな世界でイノベーションが起こることはないだろうが、それ以上に何か大きなものが欠落してしまっているだろう。むしろ、イノベーションとはその「何か大きなもの」の充足の副産物として生まれるのかもしれない。イノベーションとは付随物なのだ。

むしろそうであるからこそ、イノベーションは力を持つ。それは妄想を駆動力とするが、しかし現実と乖離していたりはしない。ファンタジーとSFの違いはそこにあるだろう。ファンタジーは「この世界」とは異なる世界(異世界)を描くが、SFはあくまで「この世界」の延長線上(あるいは一つのパラフレーズ)として描かれる。どうしようもなく、地続きなのである。そして、地続きであるからこそ、それは社会と関係を結べる。その妄想は、どうしようもなく現実に引きつけられる。変革が起こるのは、そのような異なる駆動力を持つベクトルが、否応なしに噛み合わされるときであろう。

そこまで考えたときに、現在の私たちに圧倒的に不足しているものが見えてくる。それはSF的ビジネス書だ。本書は〈SFプロトタイピング〉によって未来を幻視し、そこから生まれる駆動力によってビジネスを進めていく方策が紹介されているが、私たちはまず、「新人コンサルタントが忙し過ぎる」状況とは異なるビジネスの現場を幻視しなければならない。

現代のお仕事小説は、現場の苦労を中心に語られる。それは共感の意味でも、カタルシスの意味でも有用だろう。しかし、それは「未来」を幻視させない。ブルシットジョブなどどこを探しても見つからないような環境で働く人たちのイメージを喚起させる、しかしファンタジーではないSFな小説。

私たちが切実に求めていながら、しかし実体化されていない物語とはそうした物語ではないだろうか。未来は予測するものではなく、創造するものだとしたら、私たちは現状をただ「仕方がない」と受け入れるだけではなく、現時点では想像もしえない未来を創造するために、想像を(あるいは妄想を)育んでいく必要があるだろう。

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