「積読こそが完全な読書術である」
いったいどんな内容なのだろうか。本を積んでおくことが、完全な読書になる? タイトルを見るだけで、ついつい思考を走らせてしまう。駆動させられてしまう。
積まれた本のタイトルを見ただけで思考が走る。本が何かを語ってくる。いや、タイトルだけではない。装丁を含めた本の全体が発する存在感が、あるいは複数の本たちの「隙間」から立ち上がる気配が、私たちに向けて語りかけてくる。
本から何かしらのメッセージを受け取ることが「読む」行為なのだとしたら、私たちは本を積むだけで、もう「読む」という行為に一歩足を踏み入れている。カバーや帯を眺めたり、目次やまえがきをぱらぱらと目を通すだけで、それはもう(完全ではないにせよ)立派な「読む」である。少なくとも、「読む」という領域に一歩以上足を踏み入れている。
一方で、その領域には終わりがない。正確な「読み」を追求していったところで、たしかにそれを手にできる保証はどこにもない。「読む」には限りがないのである。言い換えれば、完璧に「読む」ことなど誰にもできない。おそらく著者でさえ。
私たちはいつもこの狭間をうろつくことになる。それが本書の論旨を支える骨子の一つである。いつまでも不完全な読書。
もう一つの骨子は、私たちがあまりにもひどい「情報の濁流」に見舞われており、意図を持って積まなくても、「後で読む」や「後で観る」に囲まれてしまっている、という点だ。死ぬまで楽しめる量のコンテンツが、ほとんど無料で提供されている反面、あれも見なきゃ、これも見なきゃと、追い立てられるかのように情報摂取を進めざるを得ない。まるで、情報のわんこそばである。もちろん、視聴されることが利益を生むビジネスの構造がそのような情報の濁流を生み出していることは疑いようもない。
著者は、このような状況を、つまり意識していなくても情報の濁流に押し流されている状況を前提とし、それに抗うための術(すべ)として積読を提案する。自然に積読になってしまう状況に、意識的な積読に対抗するのだ。毒を持って、毒を制する。著者はそのような意識的な積読を「ビオトープ的積読環境」を呼ぶ。
ビオトープとは、「周辺地域から明確に区分できる性質を持った生息環境の地理的最小単位」を意味する。情報環境で捉え直せば、濁流とは接続していながらも、(環境条件的に)切り離された空間ということになるだろうか。
切り離すためには、壁(仕切り)が必要になる。だからこそ、本を積むのだ。これは、周りの音を遮断するために、あえてイヤフォンで聞きなれた音楽を流すというのに少しだけ似ている。そのときの私は、音楽を聴きながら/音楽を聴いていない。そして、集中している。本を積むことによって、情報の濁流から身を守ることも似たような効果をもたらすのだろう。
また、ビオトープ的積読環境を意識的に構築する行為は、圧倒的な速度で流れる情報濁流環境から自律的な速度を得る行為だとも言えるだろう。そう言い換えれば、宇野常寛の『遅いインターネット』も連想できる。宇野もまた、現代の状況環境(特にインターネット)が人間を「考えさせない」ための道具になりつつあると危惧し、あえて「遅い」インターネットに立ち戻る提案をしている。そこでは、安易な情報発信の快楽から一歩下がり、まず良質の読者として成長することが目標とされる。これは、自分なりの情報ビオトープ環境を構築することと呼応するだろう。
現代を生きる私たちは、無防備にメディアを利用すると、そのメディアを提供するプラットフォーム企業の一番利益になる形でその利用を促されることになってしまう。たくさんの広告と、たくさんの誘惑と、たくさんの脅しと、とたくさんの方針。そうした誘因に取り囲まれた私たちは、いずれ主体性とは何なのかを見失ってしまうだろう。それはもしかしたらユートピアなのかもしれないが、もちろんその裏側はディストピアでもある。
どちらが私たちにとって良いのか。それについてじっくり考えるためにも、情報の濁流から一歩距離を置く必要があるのだろう。