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『迷いを断つためのストア哲学』(マッシモ・ピリウーチ) 

原題の『How to Be a Stoic:Using Ancient Philosophy to Live a Modern Life』からうかがえるように、古代の哲学をいかに現代的な生活に調和させるのか、という話が本書では展開される。もちろん、中心となるのはストア哲学だ。

さて、ここで本来なら「ストア哲学とはなんぞや」という話に入るべきなのだろうが、その前に自分の想像力の無さに驚いてしまった。日本語でもよく使われる「ストイック」という言葉は、このストア哲学から来ている。原題にも「Stoic」とあるが、これは「ストア哲学の」という意味なのだ。日本語では、「禁欲的な」という意味合いが強いが、「〔自分にとって悪いことが起きても〕感情を表に出さない、平然とした、冷静な」という意味合いもある。そして、「How to Be a Stoic」というテキストが含意するのは、どちらかと言えばこちらであろう。

目次は以下の通り。

まっすぐではない道
ロードマップ
1部 欲求の原則 何を求め、何を求めないのが適切か
 わたしたちの力が及ぶもの、及ばないもの
 自然に従って生きる
 ソクラテスとの球技
 神か原子か?
2部 行動の原則 世界においていかに振る舞うか
 人格(美徳)の重要性
 大事な言葉
 ロールモデルの役割
 身体障害と精神障害
3部 受容の原則 状況にいかに対処するか
 死と自殺について
 怒り、不安、孤独にいかに対処するか
 愛と友情について
 精神的訓練の実践
付録 実践哲学としてのヘレニズム哲学

ご覧のように大きく3つの部で話は進む。何を求め、何を求めないのかという「欲求の原則」。その欲求の原則を踏まえた上で、私たちがどう振る舞うのかについての「行動の原則」。そして、このままならない世界が私たちにもたらしてくる出来事にいかに対処していくのかの「受容の原則」。この三つだ。

冒頭に掲げられる「欲求の原則」は、この世界と私という存在に関するもっとも基本的な原則で、現代でも著名な自己啓発に脈々と受け継がれている。たとえば、『7つの習慣』に登場する「影響の輪と関心の輪」は、まさにこのストア哲学の精神を提示する。いわく「自分の行動や態度、言葉遣いは自分の影響下にあるが、他人の行動や世界がどうあるのかといったことについては自分の影響下にはない。だから、影響下にないことではなく、あることについて心を向けよう」。そういう話だ。

ここでもちろん、行動経済学的なツッコミは入れられるだろう。本当に自分の行動や態度は、自分の影響下にあるのだろうか。もし後者の「自分」を、瞬間的な認知としての自意識とすれば答えはNoだろう。しかし、全体としてあるいはパッケージの相対としての自分であれば、答えはややYesに傾く。

私は、体重を減らすように努めることができるし、それは他人の体重を減らそうとすることよりも、達成確率は高い。100%完全とは言えなくても、そうであろう状態に向けて進むことができる。

ここで再び行動経済学の話を持ち出す。カーネマンの『ファスト&スロー』ではシステム1とシステム2という対になる概念が登場する。前者が、直感的でスピードのある反応、後者が、思考的で時間のかかる反応だ。あくまでこれは、脳の機能を便宜的に二つのシステムとして表現したものにすぎないが、たとえそうであっても、異なる二つの性質が一つの脳内に発現しうることは重要である。そして、そこにストア哲学的な立ち振る舞いが入り込む余地がある。

私たちの意識は、このままならない世界に直面し、一つのダイアローグを不可避に発生させる。非常に偏りのあるダイアローグだ。その多くは、ある程度自然なものと言えるだろうが、問題は人間社会が自然とは呼べないことである。よって、そこには齟齬が、もっと言えばあまりよくないものが入り込んでくる。

村のような小さな共同体を維持するために「怒り」の感情は役立ったのかもしれないが、現代ではどうだろうか。強すぎる怒りは自分の心を蝕むし、結果それが自身を社会から疎外する原因にもなりかねない。しかも、現代は人が持つ力が巨大な時代でもある。一国の独裁者が怒りにかられて行動してしまえば、とりかえしのつかない事態も起こりえるが、程度の差はあれ、似たようなことが社会にいきる個人にも適用できてしまうのだ。

別の側面からも、現代社会はやっかいである。情報があまねくゆきわたり、個々人が情報を発信できるようになったことで、(『7つの習慣』から言葉を借りれば)私たちの「関心」を引きつける情報にも多く接するようになってしまった。「やりたいこと・やらなければならない」ことは増え、他人が受けた賞賛や成功がどんどん目につくようになった。心の平静は遠ざかるばかりである。

だからこそ、ストア哲学なのである。原題の副題にあった「Modern Life」こそが、もっともそうした心の持ちようを必要としている。そんな風に言えるかも知れない。

私たちを生物学的に改造しない限り、システム1的な感情の発露は留められない。ダイアローグは(意識から見れば)自動的に発生してしまう。しかし、システム2の出番はある。語られたダイアローグを、書き換えることは可能なのだ。

乱暴な運転でかっとばす車と遭遇したとき、当初はイライラを感じるだろう。しかし、「もしかして、あの人は家族が危篤なのかもしれない」とダイアローグを上書きすることはできる。そうすると、まるで憑き物が落ちたようにイライラが消えていく。もちろん、私は本当にその人の家族が危篤だと信じているわけではない。しかし、自分が想像もしない何かがそこにあるのかもしれない、という想像、言い換えれば、結論までの「間」が生まれている。その間が、イライラという感情を吸い取っていくのだ。

システム1からシステム2へのバトン。「いやまてよ」「もしかしたら」の休符打ち。そうしたものが、めまぐるしくなりすぎている現代では必要だろう。

さらに言えば、あらゆる対象を自己の管理下に置こうとする行きすぎたテクノロジー信仰へのアンチ・テーゼとしても、このストア哲学は機能するはずだ。自己保存を極端に希求するのではなく、一つ上の大きなシステムに自己を位置づけること。さりとて、自己を見失うことはないこと。その調和。

冷静であることそのものは重要ではない。起きた状況に対処していけることが大切なのである。

迷いを断つためのストア哲学
マッシモ・ピリウーチ 翻訳:月沢李歌子 [早川書房 2019]

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