去年の年末に体調を崩した。命に関わるものではなかったが、楽観できるものでもなかった。その対策についてネットで検索しているうちに、昨今よく言われる「ネット汚染」ということの意味がよくわかった。
役立つ情報が見つからないわけではないが、似たようなページが非常に多い。ほとんどコピペなものも一つや二つではなかった。一ページあたりの文章量も多く、さまざまな「もしかして、こんな病気かも」という文言が踊っている。
いくら地味とは言え、私も一介のブロガーである。そこには何かしらの力学が働いていることは推測できる。本書で言う経済合理性、そしてそれを支えるSEOだ。
目次は以下の通り。
第一章 健康になりたい人とそれを騙す人
第二章 ネットメディアと既存メディア、分かれた明暗
第三章 クロを切り捨て、グレーを探る
第四章 それでも私たちは、「医療デマ」に巻き込まれる
第五章 ネット時代の医療情報との付き合い方
本書はまずWELQ問題を取り上げる。著者がトリガーを引いた、ネット上の健康情報問題である。そこにどんなメカニズムがあったのか、背景に動いていた力学はどのようなものであったのか。それが解説される。
とは言え、著者の懸念はそれだけではない。確かにネットには不確かな健康・医療情報がアップされる。そこには利潤を得たいという目的がある。しかし、そんなことを言えば、ネット以外のメディアはどうなのか。
書店に行けばうさんくさい健康本が大量に陳列されているし、週刊誌の特集にも目を疑いたくなるような記事が掲載されている。昨今、出版業界の厳しさが指摘されているが、その厳しさが強まれば、さらにそうした健康本は量産されるのではないかと著者は推測する。その推測はおそらく正しいだろう。
私たちが健康情報を安易に求め、それらの情報を精査する力がなければ、供給側はジャバジャバと情報を垂れ流してくれる。そして利潤を上げるためには、その情報は低コストで生成されるようになる。それが市場原理というものだ。この辺りは、メディアやジャーナリズムが抱える根本的な問題で、ジェフ・ジャービスも『デジタル・ジャーナリズムは稼げるか』でさまざまな考察を重ねているが、安定感のある解はいまだ出ていない。
その点、ネットには自浄作用があると著者は述べる。WelQ問題をその代表例として、これからの可能性が提示される。しかし、「ネットに自浄作用がある」と言い切るのは単純過ぎるだろう。
たとえば、デマなツイートはRTが広がるが、それを訂正するためのツイートはRTがたいして広がらない、という話をよく聞く。また、本書でも指摘されているがフィルターバブルの問題もある。バブルの中にいるときにはアンチテーゼな情報はことごとくフィルタリングされる。これでは自浄は起こりようもない。
つまり、ネットには個人が不具合を見つけ出し、指摘し、「問題化」する力があるが、それは個人がそう動いてこそ発揮される、ということになる。ネットワークがあるだけではどうしようもない。
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本書で非常に共感できたのは、怪しい医療情報の被害を解決するために「個人のリテラシーを上げる」という方法を提示しなかったことだ。
たしかに個々人のリテラシー(情報を読み解く力)が上がれば、そうした被害は減るに違いない。理念としてはまったく正しい。問題は、現実としてそれが可能かどうか、という点だ。
忙しい人々に「リテラシーを上げましょう」といって通じるのか。私はかなり難しいように思う。それに、教養を持つ人だって、自分や家族が深刻な病状になれば、藁にもすがりたい気持ちになることはありうる。そういう状況ではリテラシーは沈黙してしまうことが多い。
よって、リテラシー向上だけに問題解決を頼るのは筋が悪い。リテラシーが上がることにこしたことはないが、別の何かも必要だろう。
そこで本書は「情報のリレー」というハッシュタグを提案している。何かしら問題を見つけた人は、自分だけで抱えておくのではなく、#情報のリレーというハッシュタグつきでTwitterに投稿する。それを著者が拾い、しかるべき場所へと届ける。ようするに問題情報の投稿場所として機能させようというわけだ。
情報を精査するのは難しい。でも、声を上げることならばできるのではないか。そして、信頼できる窓口さえあれば、人々はもっと声を上げるのではないか。そのような著者の願いが感じ取れる。
ここで提示されているのは、第四章で描かれているマルチに「閉じ込められている」人とはまったく逆の状況である。マルチに閉じ込められている人は、「あちらとこちら」を切り分け、それを断絶させる。「私たちは私たち。あの人たちはあの人たち」というわけだ。
しかし、自分が気がついた不正確な情報について声を上げることは、極端なことを言えば「赤の他人」のためである。なにせ自分はその情報の不正確さに気がつき、ダマされてはいないのだから。
そのような情報について僅かでもアクションを起こすことは、「公」(Public)の感覚がそこにあることを示す。自己だけでは完結しない何か。疎でゆるやかながらも、たしかにつながった何かが存在していることを示す。
言ってしまえば、社会というのは見ず知らずの人間が生活平面を交差させて維持していく共同体である。誰しもが「赤の他人」のために何かしらの仕事をしている。だから、#情報のリレーで声を上げることもまた、社会的活動の一環だと言えよう。
問題は本当にそうした活動が行われるかだ。それに関しては、本書に面白い記述がある。
同時に、 声を上げるというのは、ウソや不正確な情報に気づい た人の義務ではないかとも思っています。
「義務」というのはかなり強い言葉だ。この表現に関しては賛否あるだろう。しかし、フランス貴族の義務として示された「ノブレス・オブリージュ」に共感を示すならば、この義務にもまた共感を示せるのではないか。「情報を持つ者の義務」。
これはリテラシーではない。むしろ、ある種の文化と言える。
結局のところ、私たちが何かしら変わらない限り、一連の問題が解決することはない。
私たちがただ権力者に操作されるだけの存在であれば権力者をすげ替えれば済む。しかし、実際はそうではないし、そうなるべきでもないだろう。だからこそ、文化的な変容は欠かせない。私たちはどう立ち振る舞うべきか、という明文化されえないルールをリライトしていくことが、問題解決には必要である。
#情報のリレーというハッシュタグが、そのきっかけとなるのかどうかはわからない。それでも、そこには期待感を抱かせる何かはある。スタートとしては悪くないだろう。
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総じて言えば、本書は現代の情報社会について考えさせられる一冊である。さまざまテクノロジーと思惑が渦巻く情報環境。それを主軸とした情報社会で活きる市民として、何か良くしていくことはできないだろうか。医療情報だけではない。深刻さの程度はさまざまでも、私たちが手にする情報は、常に汚染される可能性を秘めている。放置しておくわけにはいかないだろう。