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『POWERS OF TWO 二人で一人の天才』(ジョシュア・ウルフ・シェンク)

孤独な天才が、独力で世界をかえるアイデアを閃き、社会にイノベーションを導く、というような「天才」のイメージは、単に神話に過ぎない、というのが本書のスタート視点。では、天才の実体はどのようなものなのかと言えば、親密な人間関係や社会ネットワークの中で生まれる、という。

もちろん、アップルやGoogleの創業者のペアは有名な話だし、日本でも本田宗一郎と藤沢武夫が二人で会社を回していた話は今さら説明するまでもないだろう。それぞれの組み合わせは、まるで絵に描いたように対称的な性格や性質で構成されており、であるがゆえに、お互いの弱点をカバーすることができる。

それだけではない。どのような形のペアであっても、一定以上の相手に対する敬意がある。ダニエル・カーネマンが、エイモス・トベルスキーのことを語るその語り口は、思い出しても胸が熱くなるものがあるが、そこにあるのは「強敵」と書いて「とも」と読む的な関係なのであろう。単に甘え合う関係ではなく、お互いが切磋琢磨し、その力を引き出すような関係。

であるがゆえに、その関係は壊れやすい。静的ではなく動的なので、一瞬で壊れてしまうようなこともある。その辺りの、ペアの結合から離散までの話が、本書では解説されている。

さて、二つ気になることがある。一つは、なぜ二人なのか、という点だ。ひとりでは限界があることはわかりやすい。人間はバイアスを持つし、自分の物語に制約される。自分ひとりでも弁証法をスタートすることはできるが、自分の認識そのものに対するアンチテーゼを立てることは(その定義から言って)できない。他者がいれば、それが可能となる。

では三人ではどうか。3は安定の数である。三つどもえという言葉もあるし、平面を構成するための最小の点は三つである。GPSも3点で観測される。3は、調和に至る道なのだ。意見が分裂しても、「多数決」が成立する。二人だと、それが起こりえない。いつまでも、綱引きは続いてく。その不安定さこそが、動的な状態へともたらすのだ。

その意味で、三人以上は、こうしたクリエイティビティ・ペア(というかセット)にはなりにくいだろう。建設的なブレストは可能だが、クリエイティブ・ペアが引き起こすような創造性の火花は飛び散らないはずである。

もう一つ、気になることは、このような二人で一人の天才という構図は、人間の創造性がほとんど変化していないことを前提とすれば、はるか昔から存在したはずである。急に近年になって、こうしたペア型の天才が生まれてきたとは信じがたい。

では、なぜ私たちは「孤高の天才」のようなイメージを持つのだろうか。

おそらくそれは、私たちの認識が、人フォーマットを好むからだろう。人間の認識は、人の顔に強く反応するし、擬人化という言葉もある。認識の単位として、「人」は使いやすいのだと推測できる。一方、二人で一人の天才、という構図は、「ひとり」ではない。「ひとり」が二つ集まったものでもない。それは関係性であり、現象であり、システムである。そのようなものを、すっきり捉えることは、脳はあまり得意のではないのだと思う。だから、認識され、言い伝えられるものは、いつでも「ひとり」である。

これは、単に一人の人間、ということではない。言い換えれば、一つの「物」として扱われる、ということだ。つまり、関係性でも、現象でも、システムでもない、ということだ。そうした系よる出力を、単一の概念へと代替(あるいは消化)されたもの。それが「天才」であり「英雄」であり、もっと言えば「神」なのであろう。

POWERS OF TWO 二人で一人の天才
ジョシュア・ウルフ・シェンク 翻訳:矢羽野薫 [英治出版 2017]

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