Lifehacking Newsletter 2016 #16より。
海外のブログ事情と、日本のそれとの違いについて論じられている。
市場規模の違い、つまりそこに投じられるお金と読者となりうる人口の多さの違いは間違いなくあるだろう。だからこそ、日本では必死にPVを稼ぐ話が前面に出てくるのも頷ける。でも、それだけではない気がする。
日本におけるウェブ界、ブログ界は、まだ一箇所で起こった炎上事件がほぼ全員が知るところとなるくらいには狭い、いわゆる村社会であるという側面があります。
おそらく「日本」という文化が機能するところでは、それがどのような広さであっても村社会ができあがってしまう──そんな側面があるのではないだろうか。
インターネットを使う人が増えているにも関わらず、あるいはブログをスタートする人が増えているにも関わらず、むしろ村社会化が進んでいるように見えるのは、おそらくそれが原因だろう。ネットに、「日本」文化が持ち込まれているのだ。
ここで日本にカギ括弧をつけているのは、もちろん「日本人全員にそういう性質があるわけではない」ことを示している。でも、たしかにある種の人々にはそういう性質があるのだ。この辺りはややこしくなるので、今回は言及しない。
で、その傾向は次の引用箇所とつながる。
ましてや、日本で最近月始めに目にすることが多い、ブロガーによる月次のPV報告や収益報告は見たことがありません。
こうした報告は、もちろん「自分はすごいんだよ」というアピールである。一つにはそうしたアピールをすることで、自分に権威付けが期待できる点があるだろう。が、それとはまた違った側面も想定できる。それは、差異化だ。
これは今言説をまとめようとしているところなのだが、日本における差異化は実に不思議な動き方をする。共通の土台に乗っかった上で、その中で微妙な差異を追求するのだ。本当の意味で差異化を目指すなら、差別化と言えるぐらいまったく違うことをすればいい。でも、そうはならない。ほとんど同じことをした上で、「自分はそれとはちょっと違うぜ」をアピールする。私はそれを、「制服のカスタマイズによる個性のアピール」と呼んでいるが、「月次のPV報告や収益報告」にはそれと同じ匂いを感じる。
なにせこうした数字は、いかにも共通のルールとして機能しそうだ。どのブログにもPVがある。だから、PVを競っている間は同じゲームをしていることになる。で、それが他の人よりも少し優れていると良い気分になれるわけだ。
そのような傾向はまさに村社会的なものであろう。村社会は基本的に内側に均一を迫るものであり、そこからの大胆な逸脱は自身の疎外を呼び込む。それは避けたい。だから、同じことをしていながらも、自分は違うアピールを(その多くは自分は優れているアピール)をすることになる。
別にそれはそれでいいのではないか。無論そうだ。ただし、そこには新しさもなければ可能性もない。村社会的安住があるだけで、しかもその村は実はいつ潰れるかはまったくわからない。その点に注意して、ゲームを選択する必要がある。
そもそもとして、ネットは逃避場所であった。特に日本では村社会に馴染めない人たちが、自らの居場所を構築するもう一つの現実だったと言えるのではないだろうか。で、ネットにも村社会的構造や関係性が入ってきて、状況はややこしさを増した。現実社会の村は物理的な境界線を持つが、ネットのそれには境界線が存在しないからだ。だから、実に見事にいろいろなものが入り混じって、奇妙な(そしてあまりよくない)化学変化も発生している。
Facebookグループや、LINEが盛り上がっているのは、おそらくその反動だろう。そうしたツールは切り分けた村を作りやすい。(少なくとも自分たちは)不快な思いを避けられる。
でも、おそらく私たちはそういう村社会的な気質からいい加減さよならすべきなのだろう。
どうしてこのようなことが気になるかというと、今後、知的なプラットフォームとしてウェブは書籍以上に重要になり、主体的な意味をもつようになるはずだからです。
この指摘は重く受け止められていい。『ブログを10年続けて、僕が考えたこと』という本で書いたことだが、ブログによる情報発信は社会参加でもある。それは自分と社会とつなげるものであり、日本社会では珍しく他人の許可や同意を得ずに運営できるメディアでもある。つまりそれは村社会的価値観から脱出するための一つの武器でもありうるのだ。このことについては、現在構想中の『僕らの生存戦略』という本でもじっくり語るつもりである。