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『自己啓発の時代』(牧野智和)

「自分とは何だろう」という問いは、哲学的な問いである。

若かりし青年時代であれば、一度か二度くらいは誰しもが考えたことがあるだろう。30歳を過ぎて40歳にさしかかろうとしている私みたいなおっさんでもたまに考える。もしかしたら、一生付き合っていく問いなのかもしれない。

では、一見似ている「自分らしさとは何だろう」という問いはどうだろうか。もしこれが「〈自分らしさ〉とは何だろう」であれば、哲学的な問いである。しかし、自己に潜む何からの属性を明らかにしようとする問いであれば、それは社会的な、あるいはコミュニケーション的な問いになる。そして、現代の日本では、その問いがおどろくほど浸透している。

本書は、その社会への浸透具合に視線を向けた一冊と言えるだろう。副題は『「自己」の文化社会学的探求』。なかなか面白いテーマである。

自己の体制と自己啓発メディア

なんとなく、空気的にではあるが、現代日本では「自分らしく生きること」が肯定されている。いや、暗黙に要請されていると言ってもいい。「なんとなく」「空気的に」と書いたが、特定の権威がそれを強く主張しているわけではなく、社会に広がる文化の網の目が、そのような指向性を有しているのだ。つまり、私たちが抱える「自分らしさとは何だろうか」という問いは、文化の網の目によって絡め取られている。

そもそも、「自分らしく生きる」ためには、具体的に何が「自分らしい」のかを見極めなければいけない。そのような問いが、社会全般に浸透している状況は一般的であろうか。おそらく、かなり特殊な状況ではないだろうか。狩猟時代の人類は、自分について問わなかっただろうし、江戸時代の農民は自己分析などしなかったはずである。現代でも、ヨーロッパ、東南アジア、アフリカなどの社会で、これらの問いが社会一般に浸透しているとは少し考えにくい。文化的な影響がそこにはあるのだろう。

著者は、ニコラス・ローズの「自己の体制」(regimu of the self)という概念を参照しながら、現代において、「自分が自分を扱う」構造がどのように形作られているのかを考察していく。

つまり私たちにとって、自己をめぐる問いそのものや、そうした問いへの取り組み方、答え方は社会的に限定されたものであり、またそれは自己あるいは他者、より包括的には人間を何らかの観点から理解する、あるいは働きかけの対象とする「知識と技法」との相関物であるとローズは考えるのである。

分析の対象となるのは「自己啓発メディア」である。大衆的セルフ・ヘルプメディアという言い方もできるだろう。もちろん筆頭に上がるのは、自己啓発書、それもベストセラーに名を連ねる自己啓発書である。それらのメッセージが時代ごとにどのように変転しているのかを分析し、現代日本社会の「自己の体制」の枠組みを提供する。

その上で、終活本、特に自己分析を主体とした本(「就職用自己分析マニュアル」)や、女性向け雑誌『an・an』、ビジネス雑誌などの分析によって、さらなる材料を提供する。

私は『an・an』という雑誌を一度も読んだことがないのだが、そこで展開されている記事の「自己啓発性」には驚いてしまった。なるほど、現代はもうそういう時代になってしまっているのだ。そして、私もそれに貢献しているのであろう。

自己をどのように扱うか

分析として面白いのが、『脳内革命』を一つのターニングポイントとしていることだ。それ以降、自己啓発書は、「自分の内面を技術的に処理しうるものと見なす感覚」に基づいて展開されていく。「自分らしく生きる」ことはその一例であろう。自己を自己によるコントロール下に置き、常に適切に制御していくことを志向する。

その究極が、「ライフハック」であろう。まさにそこでは、人生(自己の総体)がハック可能な対象として扱われている。さらに言えば、「ハックすべき」なものとしても扱われている。これは、そうした情報を発信するメディアの売上げを作るための説得力構築として用いられる一種のレトリックではあるが、それらの総体が一つの価値観の方向性を醸成している可能性は否めない。

また、説得力構築という点で言えば、自己啓発書多くは、本書で言う「万能ロジック」を実装している。万能ロジックとは、たとえば、「これを続ければ必ず成功します」と述べておき、「成功しなかったじゃないか」と反論されたら、「成功するまで続けなかったからですよ」と返すような体制のことである。他にも、「強く願えば、必ず実現します」と「本当には強く願っていなかったからですよ」というパターンもそれにあたる。

こうした言説は、単純に批判すれば欺瞞でしかないわけだが、しかし一方的に断罪するのも早計かもしれない。読者側がそうした言説を希求していた可能性はある。社会が不安定化すると、人は安定的な何かを求める。しかし、不安定な状況では、そのままでは安定的な(言い換えれば、絶対的な)何かは提供できない。なんからの(欺瞞を含んだ)装置が必要である。

乱暴に言えば、人は断言してくれる誰かを求めているのかもしれない。もしそうであれば、欺瞞的な著作を断罪したところで、何も変化はないだろう。次の断言装置が生まれるだけである。

さいごに

現代に浸透する「自己啓発性」は、自己啓発書だけが発しているわけではない。漫画、CM、J-POPの歌詞だって、発生源なのである。私たちは、そうした発生源が織りなす網の目の上で、それぞれが持つ「自己啓発」の特殊性にまったく気がつかず、それらを呼吸して生活を送っている。

もちろん私たちは「自分らしく」生きる自由を有している。しかしそれは、「自分らしく」生きなければならない、という義務に直結するものではない。本来、人は皆自分らしく生きなければならない、と主張するならばそのための哲学が必要なはずである。しかし、文化的な網の目はそのような問いを却下する。「自分らしく」生きなくてもいい、という言説を検討にすら値しないものとして扱う。

単なる自己啓発書の批判では、このような状況は変わらない。結局のところ、他のメディアが似たような情報を発信し続けているからだ。文化とメディアと市民が一体となって、一つの系を形成しているとすら言えるかもしれない。

だから、ときには「はぐれてみる」ことも大切だろう。メタな視点は、「はぐれる」からやってくるものである。

▼目次データ:

第一章 「自己」の文化社会学に向けて
第二章 自己啓発書ベストセラーの戦後史
第三章 「就職用自己分析マニュアル」が求める自己とその社会的機能
第四章 女性のライフスタイル言説と自己
第五章 ビジネス誌啓発する能力と自己
終章  自己啓発メディアが作り出す「自己の体制」

自己啓発の時代: 「自己」の文化社会学的探究
牧野智和 [勁草書房 2012]

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