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顔さえ知らない「戦友」

『ソードアート・オンライン』でも『オーバーロード』でも、他の何かでもいいのだが、こうした作品で描かれている「オンラインゲーム上の友人」が持つ良さというのは大変共感を覚える。そして、その関係は実に独特で微妙だ。

その関係は、Twitterでよく絡む人や、ブログで交流がある人とのそれと似てはいるのだが、それとまったく同じでもない。

似ている点は、ようはそこには現実の日本が持つ村社会的閉塞感がないことだ。言い換えれば、そこはタテ社会ではない。日本の場合、一つのコミュニティーに属してしまうと、それが排他的に機能し、それが社会のすべてになりがちだ。子どもにとっての家庭や学校、社会人にとっての会社を思い浮かべればいい。

オンライン上の人間関係(ひいてはコミュニティ)はそこにレイヤーを付け足してくれる。現実を改変したりはしないが、現実に厚みをもたらしてくれる。ただし、オンライン上に比重を置きすぎると現実の方の現実感が薄れるという問題は、川原礫の両作品(『ソードアート・オンライン』と『アクセル・ワールド』)が示している通りだ。そこまでどっぷりつからなければ、これらは現実の厚みを増してくれるし、それは感じうる閉塞感を多少なりとは和らげてくれる。

でもそれはSNS交流やブログでも起こりうることだ。オンラインゲームには、またそれとは違った良さがある。それは「役割」がある、という点だ。パーティーを組んだことがある人なら実感するだろう。タンクにはタンクの、ヒーラーにはヒーラーの役割があり、それはつまり求められる行動がある、ということだ。それをきっちりこなす。現実社会で言えばそれは「仕事」である。

でも、だからこそ楽しい。自分が何かに貢献している感覚がある。そして、複数人が集まり、苦難を乗り越えて、一つの目標をクリアする、というあの楽しさがある。そして、自分の居場所がその中にあるのだ。

そこでは学歴や出身地、年齢や性別はほとんど関係ない(性別はちょっと顔を出すことはある)。ある意味で、擬似的な「ありのままの自分」でいられる。もちろんこの「ありのままの自分」は虚偽の感覚なのだが、日常的にまとわりついてくるある種のうっとうしさから解放されることは確かである。

オンラインゲーム上の友人は、その人のリアルについてまったく知らなくても、ようは「戦友」なのだ。顔さえ知らない「戦友」。

この感覚は、ネット上で人間関係を構築したことがないとなかなか伝わらないかもしれない。もちろんここで言う「人間関係の構築」とは、友人申請をして許可を貰うというのとはまったく違うことは言うまでもない。

ソードアート・オンライン〈1〉アインクラッド (電撃文庫)
川原礫[アスキーメディアワークス 2009]

オーバーロード1 不死者の王
丸山くがね[KADOKAWA/エンターブレイン 2012]

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