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『ウンコな議論』(ハリー・G・フランクファート)

これほど紹介するのが躊躇われる書名もなかなかない。正直、インパクトを狙いすぎて滑っている気がしないではないが、内容に読むべきところは多い。

一応、「ウンコな議論」とは何かの定義を探っていく体にはなっているが、最後まで読んでみると、それはおまけというか話のマクラのように感じられる。では何がオチなのかというと、それは本書を直接当たってもらうのがよいだろう。解説を入れても、すごく短いので、あっという間に読めるはずだ。

でも、それはそれとして、日本のインターネットの「言論空間」__もし、そんなものがあるとすればだが__では、この「ウンコな議論」が飛び交っている気がする。一見それは「議論」っぽい体を成しているのだが、その実体は完全に空虚である。

発言の当事者は、自分の発言が真実にどれほど近しいのかをまったく考慮していない。その場において、自分の都合が良くなることをどこかから借りてきた理屈と権威で装飾して並べ立てているだけである。だから、場が変われば、コロリと逆の発言を平気で口にする。それは「変わり身が早い」といったことではない。「思想の転向」ですらない。そもそも、発言の内容自体を発言者の当人が信じていないのだ。

その場における自分の立ち位置さえ維持できれば、そして、そのために役立つなら、どのような言葉でもその口からついて出てくる。

こういうのは、基本的にどうしようもない。斬鉄剣でコンニャクが切れないようなものだ。放置するしかない。

問題があるとすれば、そのような刹那でしかない「意見」を、断片的に耳にする人がうっかり信じてしまうことである。1秒後にはちゃぶだいをひっくり返すかもしれない人間の発言を、「そうですよね」と頷く人が出てくる。それが現代の(日本の)インターネットである。ほとんど地獄ではないか。

我々の社会が、基本的に「信頼」を土台にして回っていることを考えると、上記のような発言者の増大は、結構いろいろ危機的なことを起こすのではないだろうか。あるいは、もう起きているのかもしれない。

ウンコな議論 (ちくま学芸文庫)
ハリー・G・フランクファート [筑摩書房 2016]

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