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アニメ『Re:ゼロから始める異世界生活』 その2

その1は以下。

アニメ『Re:ゼロから始める異世界生活』 – Honkure

エミリアが王選に参加する、シーズン後半のお話に移る。

「その1」で書いた通り、スバルはようやく「自分の物語」を語り始めようとしていた。流されるだけの物語ではなく、自分で選び取る物語だ。しかし、その物語は、完全ではない。なぜなら、そこには「自分」しかいないからだ。シーズン後半は、その欠落が描かれている。

「自分」というものは、自分ひとりで形成されているものではない。自由意志というといかにも独立独歩な存在に思えるが、私たちは常に他者から接触を受け、その眼差しにさらされている。そして、その感触や視線を内側に取り込んで、「自分」というものが形成されていく。私というものの総体は、私が私だと思う私と、他者が私だと思う私と、それぞれの相互的なフィードバックによって成立しているのだ。だから、自分しかしない物語はいつだって不完全である。

そもそも、自分しかしないなら、物語る意味などどこにもない。


絶望にうちひしがれていたスバルは、ほとんど絶対的なまでのレムからの献身(いや、献心か)によって、他人から見た自分という視点を回復した。

これが実に微妙なところで、勘違いすると「他人が期待した通りに動く自由意志のない存在」のように思えるのだが、そうではない。他人が期待している自分というものを理解し、その上で選択してそれを自らの血肉へと変えるのだ。言わば、アイデンティティーを取り込んでいるのだ。それが相対化として働いたり、あるいは自信として裏打ちしたりもする。

グレンラガンのカミナは、「おれが信じるおまえでもない。おまえが信じる俺でもない。おまえが信じる、おまえを信じろ!」と言い残したが、その前段階として「自分を信じるな! 俺を信じろ! お前を信じる俺を信じろ!!」があり、「お前を信じろ! 俺が信じるお前を信じろ!!」があってこそ、という点を忘れてはいけないだろう。

自分ひとりの視線というのは非常に脆かったり、傲慢だったりする。他者の視線がそこに混じり合うことで、それは相対的かつ絶対的な(矛盾するようだが、まさにそういうことなのだ)強さを手にできる。


こうした機微を表現している点はたいへん評価できるのだが、それ以上にレムがスバルに告白しているシーンは、彼女の切ない想いを想像してしまって、号泣してしまった。あれはズルい。あと、ヴィルヘルムの回想シーンもズルい。あれがあるからこそ、彼がスバルに言う「戦え!」というセリフが際立ってくる。

付け加えて言うなら、ペテルギウスの声をあてていた松岡禎丞さんはかなり凄まじかった。これまでとは毛色の違うキャラで、『食戟のソーマ』を見たあとに本作を見るとギャップの大きさでいっそ笑いそうになる。それでもハマり役だったと言えるだろう。

とまあ、全体的によく出来た作品だった。二期にも期待したい。

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