『人はなぜ物語を求めるのか』の続編にあたる一冊。私たちの人生と物語の関係に、再びまなざしを向けている。
まず著者は、人間にとっての物語を以下のように見立てる。
人間は生きていると、二酸化炭素を作ってしまいます。そして人間は生きていると、ストーリーを合成してしまいます。人間は物語を聞く・読む以上に、ストーリーを自分で不可避的に合成してしまう。そう思っているのです。
人が歩いた後に、ストーリーが生まれる。そういう言い方もできるだろうだろうが、ここで注目したいのは「合成」という述語である。これは、知覚される情報を素材として物語る、という意味合いもあるだろうが、それに加えてストーリーの素からストーリーを構成しているとも捉えられる。つまり、ゼロからの創造ではなく、いくつもの物語を借り受けて、私たちは自分の物語りを紡ぐ、ということだ。
その意味で、物語は二酸化炭素でもありながら、酸素でもありうる。私たちは物語を吸い込みながら、それをどこか意識の奥の方に蓄えて利用し、自らの物語を合成していく。そんな関係があるのではないか。
そうなると、重要になってくるのが、私たちの身の回りにある物語の傾向だ。どのような物語が私たちの周辺には溢れているのか。
ここで「報告価値」という補助線が引ける。〈蓋然性の公準や道徳の公準〉から逸脱したできごとは、報告価値があると見なされやすい。そうした情報ほど共有されがちであり、また私たちがつい注意を向けてしまうものでもある。つまり、情報空間には報告価値がある(と見なされる)情報が蔓延する。すると、私たちが紡いでしまう物語も、その影響を受けるのではないか、という疑問が立てられるだろう。この辺りの話は、『FACTFULNESS』にも通じてくる。
著者はさらに、フィクションとノンフィクションの区別について話を進めるのだが、その中で添え物程度に添えられている以下の一文が光る。
ふだん、個別事例のことばかり考えている人は、概念を概念として考えることもにも、また個別事例と普遍概念とを混同せずに区別して考えることもにも、慣れていません。
これはフィクションとノンフィクションの線引きに関する言及なのだが、しかしこの「個別事例」に「自分の人生」を、「普遍概念」に「人生」を当てはめてみると、本書のテーマに密接に関係してくることがわかる。
私たちは基本的には自分の人生のことしか知らず、自分の人生のことばかり考えている。だから、他者の理解もそのストーリーを通して行われるし(≒他者には他者の物語があると気がつけない)、また他者が一般化して語った人生の物語を、そのまま自分の人生の物語として採用しようとしてしまう。混同せず、区別して考えることに慣れていないのだ。
このことは、著者が第6章で開示する物語の〈語り直し〉とも関係してくる。私たちは一般化された物語を、そのまま自分の物語りとして紡いでしまう。最初に述べた酸素としての物語とは、つまりそういうことである。そして、その力はあまりにも強い。
僕の手持ちの一般論=世界観はこのように、その時代の制約もあって偏っていました。そのため、僕の〈頭〉が僕の〈体〉の直観を否認することは、その後も続きました。
著者はあるきっかけで、この〈頭〉と〈体〉のねじれた関係について気がつくことができた。そこで、著者は新しい物語を紡ぎ、両者に折り合いをつけられた。しかし、それは著者が意識的な努力をして獲得したようなものではない。そうではなく、世の中で語られている物語の種類が変わったことや、ふとしたきっかけが導いたことによるものだ。
このことが持つ意味は非常に大きい。私たちは、ある時点において自分が紡げる物語のバリエーションに限界を持つ。その限界は、意識的な努力で乗り越えられるものではない。つまり、それを自己責任に帰すことはできない。
たしかに私たちは、自分の人生の物語を語り直すことができる。それによって救われる心の痛みもきっとあることだろう。しかし、必ずそれができるとは限らない。少なくとも、その時点ではどうしようもないことがあるのだ。
にも関わらず、「意識して努力すれば必ずできる」と考えてしまえば、「それができていないのは、自分の努力が足りないからだ」と自己を苛む声は大きくなるだろう。それは人を苦しめる物語である。
つまり、物語は人生を救うこともあるし、そうでないこともある。この特に何も言っていないかのようなメッセージが、実は一番人生を救うのかもしれない。
とは言え、この世界がたくさんの物語で溢れ、それらと自由にふれあえる社会であるならば、私たちが語り直せるチャンスはきっと増えていくだろう。それを整えていくことは社会の一つの責務であるようにも感じる。