正直なところ、早逝の作家というフレーズには警戒を覚えていた。そこでは、何か行きすぎた神格化が行われているかもしれない。陰謀論がそうであるように、数少ないピースからでは、いくらでも荒唐無稽な絵が描ける。
しかし、伊藤計劃については、その警戒は杞憂だったと言えるだろう。紛れもない才が本作からありありと感じられる。
『虐殺器官』のときは、ただただ悲しい印象しかなかった。これほどの才気を持つ作家が描く世界が、このような〈現実〉を描いて終わってしまうのか、と。別にハッピーエンドを求めていたわけではない。作品全体を貫くような、〈行き場のなさ〉がどうしようもなく悲しかったのだ。世界は、そんなにも狭苦しいものなのか、と。
ある意味で、本作はその息苦しさが別の形で描かれている。それも多重にだ。優しさでお互いを拘束する世界。自分の体が世界の一部として扱われていながらも、意識としての自分は自己の体の所有感を訴えかける世界。世界環境に、生命体としての人間が追いついていない世界。
作中で語られる苦しさのすべては、意識が解除された世界では何の意味も持たなくなる。それは原初としての人間に立ち返ることでもあるのだろう。進化によって獲得させられてしまった形質を、ゼロリセットする行為。
その行為の是非については、著者は何も述べない。私たちの進化がそうであったように、「そういうことが、あった」というフラットな記述が貫かれている。しかし、私たちはまさにそのような世界の記述を、「意識」で読み、何かを考えることになる。そのことそのものに意味を見出せるのなら、私はそれを希望と呼びたい。本書がetmlによって、感情を添付されていることも、作品世界中の希望であると言えるだろう(もちろん、無意識は〈希望〉を抱いたりはしないわけだが)。
私たちが環境に適応するように、意識を獲得したのならば、たとえそれをゼロリセットしたとしても、再び長い生命活動の末に、それが獲得される日がくるのかもしれない。宇宙はビッグバンで始まり、いずれどのような形でか終焉を迎え、無に還る。そして、またある種の揺らぎとともに、ビッグバンと宇宙が始まる。それは、私たちの意識の発露と呼応しているに違いない。